第8話 名札の重さ
最初の出荷は、王都ではなく北の砦へ向かった。春とはいえ、山沿いの砦には雪が残っている。巡回隊が魔狼に襲われ、外傷用の薬が足りないという知らせが来た。王都への返答を待っている場合ではない。工房では、瓶に札を貼る作業が続いた。
リリアナ・ヴェルネ。同じ名前を何十枚も書くと、不思議な気持ちになる。自分の名が増えていくようで、同時に逃げ道が減っていくようでもあった。
「手が疲れませんか」
ノラが札を並べながら尋ねた。
「疲れます」
「じゃあ、私が書きます」
「調合者名は、本人が書きます。あなたが手伝う時は、補助者名を書いてください」
「補助者名?」
ノラの目が丸くなった。
「そうです。薬は一人で作るものではありません。薬草を選ぶ人、瓶を洗う人、記録を取る人。必要な作業をしたなら、名前を残します」
「私の名前も?」
「もちろん」
少女はしばらく黙って、札の余白を見つめた。それから、とても慎重な文字で「ノラ」と書いた。曲がった文字だった。けれど、誇らしそうだった。
「責任、重いですね」
「重いです」
「でも、ちょっと嬉しいです」
「わたしも、そう思えるようになりたいです」
口にしてから、ノラがこちらを見る。
「ヴェルネさんでも、嬉しいだけじゃないんですか」
「ええ。名前を出すのは怖いです。失敗したら、自分の失敗になりますから」
「でも、成功したら?」
成功したら。その問いを、王都では考えないようにしていた。成功は夫のもの。失敗はわたしのもの。そういう仕組みに慣れてしまうと、成功した時の行き先が分からなくなる。
「成功したら、次に使う人が安心します」
「じゃあ、やっぱり名前は必要です」
ノラの答えは単純だった。単純だから、胸に残った。午後、出荷の確認にセドリック様が来た。彼は瓶の札を一枚ずつ見て、補助者名まで読んだ。領主がそこまで確認するとは思っていなかったのか、ノラは背筋を伸ばして固まっている。
「ノラ」
「はい!」
「字が読みやすい。続けてくれ」
「はい!」
少女の返事は、工房の窓が震えるほど大きかった。セドリック様は次に、わたしの署名を見た。
「手書きにこだわるのか」
「最初だけは。量が増えたら刻印も考えます。ただ、今は自分で書いた方が、責任の位置を忘れません」
「忘れそうか」
「忘れたい時があります」
正直に言うつもりはなかった。けれど、言ってしまった。セドリック様は、責めなかった。瓶を箱へ戻し、静かに蓋を閉める。
「責任は、一人で背負うものではない。君の名は調合者として必要だが、この薬を砦へ届けるのは俺の責任だ。使い方を兵に徹底するのはマリウスの責任だ。瓶を清潔に保つのは工房全員の責任だ」
彼はノラの札を指で軽く叩いた。
「名札は、誰か一人を吊るすためではない。仕事の道筋を見えるようにするためだ」
その言葉に、工房が少し静かになった。わたしは、三年分の記録を思い出す。誰が材料を選び、誰が混ぜ、誰が出荷を決めたのか。書いても、表には出なかった。記録はあったのに、道筋は見えないようにされていた。ここでは、見えるようにする。
「ありがとうございます」
「礼を言うなら、砦から戻った報告を聞いてからにしろ」
「はい」
夕方、薬箱を積んだ馬車が砦へ向かった。ノラは門のところまで見送りに行き、戻ってくると少し寂しそうに言った。
「自分の名前が、遠くへ行くみたいでした」
「そうですね」
「悪いことをしたわけじゃないのに、そわそわします」
「分かります」
とてもよく分かる。夜、砦から早馬が来た。薬は届き、使用された。外傷の熱は少なく、三名が歩ける状態に戻った。使用量の記録も同封されていた。最後に、兵士たちからの短い伝言があった。痛くなかった。助かった。次もこの札の薬がほしい。
ノラはその紙を読んで、目を潤ませた。
「名前、行ってよかったですね」
「ええ」
わたしは記録帳へ、砦からの報告を貼った。名札の重さは消えない。けれど、重さには理由がある。その夜、わたしは初めて、瓶の署名を書く手が少しだけ軽くなるのを感じた。
◇
嵐の日に来る使者は、たいてい良い知らせを持っていない。その日のアーヴェンは、朝から雨だった。北の雨は冷たく、窓を叩く音が小石のように硬い。工房では雪まめ草の外用薬を仕上げていたが、湿気のせいで乾燥棚の温度調整が難しかった。
午後、城門から知らせが来た。ローウェル子爵家の使者が、アーヴェン城へ入城を求めている。セドリック様は、わたしを会議室へ呼んだ。
「会いたくなければ、会わなくていい」
最初にそう言われた。その一言だけで、少し息がしやすくなる。
「誰ですか」
「オスカー・レイ。ローウェル家の事務係だと言っている」
オスカー。夫のそばにいた若い書記だ。真面目で、いつも目の下に隈があった。工房の出荷書類を取りに来るたび、わたしの記録を見て「助かります」と小声で言っていた。
「会います。ただし、同席をお願いします」
「分かった」
会議室へ入ってきたオスカーは、以前より痩せていた。濡れた外套を脱いでも、肩の震えが残っている。彼はわたしを見ると、深く頭を下げた。
「奥様――いえ、ヴェルネ様。突然の訪問をお許しください」
「用件を聞きます」
彼は躊躇したあと、革鞄から書類を出した。
「旦那様から、調合記録の写しを受け取るよう命じられました。宮廷錬金局への納品が滞っており、このままでは契約違反になると」
「契約者はローウェル卿です」
「はい」
「わたしが記録を渡す義務はありません」
「承知しています」
オスカーの返事は、意外なほど早かった。彼はさらに頭を下げる。
「本当の用件は、別にあります」
会議室の空気が変わった。セドリック様が黙って彼を見る。オスカーは震える指で、別の紙束を出した。
「ローウェル家から出荷された青雫の霊薬で、体調を崩した方が出ています。旦那様は、一時的な好転反応だと説明しています。ですが、瓶の底に青い沈殿があり、以前ヴェルネ様が『使うな』とおっしゃっていたものに似ていて」
胸が冷えた。
「何人ですか」
「分かっているだけで八人。貴族の方は公にしていません。使用人や兵の症状は記録されていない可能性があります」
オスカーは紙を一枚、こちらへ滑らせた。そこには、彼が個人的に集めた症状が書かれていた。発熱、嘔吐、胃痛、傷口の再炎症。筆跡は乱れているが、日付と瓶番号がある。記録を取っていた。彼なりに、止めようとしていた。
「なぜ、これをわたしに」
「旦那様は、ヴェルネ様が戻れば解決すると言っています。戻らないなら、写しだけでも渡せと。ですが、戻っても同じことが続くだけです」
オスカーは初めて顔を上げた。
「私は、記録を捨てろと命じられました。捨てられませんでした」
会議室の窓を、雨が強く叩いた。わたしは紙束へ手を伸ばし、日付を確認した。症状の出方は、青晶草の過剰残留に一致する。すぐに使用停止を出すべきだ。
「この記録は、あなたが持ち出してよいものですか」
「いいえ」
「では、正式な証拠にするには手続きが必要です」
「分かっています。処罰は受けます」
その覚悟に、わたしはすぐ返事ができなかった。オスカーは夫側の人間だ。けれど、今ここにいる彼は、危険な薬を止めるために来ている。善悪を簡単に分ければ楽だ。でも、薬の仕事は楽ではない。
「セドリック様」
「聞いている」
「アーヴェンから、宮廷錬金局へ照会を出してください。青雫の霊薬の使用停止を求めます。根拠として、辺境で検査した不良瓶の報告を添えます。オスカーさんの記録は、本人の証言として別扱いに」
「手配する」
オスカーの肩が少し落ちた。安堵か、疲労か分からない。
「ヴェルネ様、私は」
「あなたには、王都へ戻る前に食事と休息が必要です」
「え」
「手が震えています。雨の中を急いできたのでしょう。証言するなら、倒れないでください」
オスカーは目を瞬いた。そして、少しだけ笑いそうな顔をした。
「相変わらず、先に体調を見るのですね」
「薬の話をする人間が倒れると、話が進みません」
ビアンカが温かい茶を用意し、会議室へ持ってきた。オスカーは両手で杯を包み、長い息を吐いた。嵐はまだ続いている。王都から来た手紙には返事をしなかった。けれど、王都から来た記録には返事をする。危険な薬を止めるために。




