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夫の功績にされていた天才錬金術師ですが、妻を辞めたのでポーションも魔導具も作りません  作者: 小竹X


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第7話 ローウェル卿の新作発表

王都から届く噂は、いつも少し香水の匂いがした。実際には、運んできた商人の荷袋に香油瓶が入っていただけかもしれない。けれど、ローウェル家の名を聞くと、舞踏会の花飾りとコレット様の薔薇色のドレスまで一緒に思い出してしまう。


「ローウェル卿が、新作の回復薬を発表されたそうです」


 マリウスさんは、朝の会議でそう告げた。治療室の机には、辺境で必要な薬の不足表が広げられている。わたしは解熱薬の在庫を数えていた手を止めた。


「新作ですか」


「ええ。名は、青雫の霊薬。宮廷錬金局では大変な評判だとか」


 青雫。聞き覚えのある名前だった。三か月前、わたしが試験記録の端に仮名として書いた。青晶草の刺激を抑え、涙のように落として患部へ使う外用薬。内服には向かないため、霊薬などと呼ぶつもりはなかった。エドガーは、その仮名を見たのだろう。


「効能は」


「外傷、内臓損傷、熱病、疲労、老化防止まで」


 ノラが薬草袋を抱えたまま、口を開けた。


「老化防止って、何ですか」


「少なくとも、青晶草では無理です」


 言ってから、頭が痛くなった。効能を広げすぎた薬は、薬ではなく願い事になる。願い事を瓶に詰めて売れば、困っている人ほど手を伸ばす。それが一番危ない。


「王都では、貴族向けの予約が殺到しているそうです」


 マリウスさんの声には、明らかな不快感があった。


「こちらへの影響は」


 セドリック様が尋ねる。


「青晶草の価格が上がります。王都商人が買い占めに動いているとか」


 工房の空気が重くなった。青晶草は、辺境の傷薬にも必要な材料だ。高位薬だけでなく、低刺激の外用薬にも使う。価格が上がれば、兵士や町の人の薬が作りにくくなる。夫の虚栄が、また見えない場所の命に触れている。


「止められますか」


 ノラが不安そうに聞いた。


「すぐには止められません」


「でも、ヴェルネさんの薬なんですよね」


「元にした試験は、わたしのものです。ただ、発表されたものが同じ薬かは分かりません」


 分からない、と言いながら、心の中では分かっていた。彼は見本の色だけを追う。仮名をそのまま使う。調合記録の全体を読まず、成功した瓶の条件だけを拾う。そうして、効能を盛る。わたしが止めなければならないのは、夫への怒りではない。


 青晶草の買い占めと、危険な薬の流通だ。


「セドリック様」


「何だ」


「青晶草の代替になる薬草を、領内で探したいです。完全な代替は無理でも、低刺激外用薬なら別の組み合わせが使えるかもしれません。それと、王都商人への買い占め制限を」


「商会へ通達する。薬草畑の調査は許可する」


「ありがとうございます」


「ただし、王都への反論は急ぐな」


 その言葉に、少しだけ目を上げた。


「反論しない、ということですか」


「違う。感情で殴り返すな、ということだ。君の名で残すなら、証拠も君の仕事の一部になる」


 セドリック様の声は厳しかった。けれど、それはわたしを黙らせる厳しさではない。雑に傷つかないための厳しさだった。


「証拠を集めます」


「その間、こちらで材料を守る」


 会議のあと、わたしは工房で青晶草の棚を確認した。残りは多くない。王都で使っていたような贅沢な試験はできない。けれど、辺境には別の薬草がある。ノラが、山の地図を広げた。


「北斜面に、青晶草に似た葉っぱがあります。色は地味ですけど、傷に当てると冷たくなるって母が言ってました」


「名前は?」


「村では、雪まめ草って呼んでます」


 地味な名前だった。少しだけ、胸が軽くなる。


「採取場所を教えてください」


「行きます。私、熱も下がりましたし」


「坂道はまだ駄目です」


「じゃあ、地図を描きます」


「それならお願いします」


 ノラは嬉しそうに炭筆を取った。わたしは、青晶草の瓶を棚の奥へ戻した。ローウェル卿の新作発表。その噂は、昔のわたしなら胸を裂いたかもしれない。今も痛い。けれど、痛みだけで手を止めるわけにはいかない。


 王都が派手な名前で薬を売るなら、こちらは名前に負けない中身を作る。夜、雪まめ草の試験を始めた。青晶草より効き目は穏やかだが、刺激も少ない。低温で抽出すれば、子どもの皮膚にも使えそうだった。記録帳の新しいページに、試験名を書く。


 雪まめ草外用薬、第一試験。調合者、リリアナ・ヴェルネ。夫が何を発表しても、この行だけは奪わせない。


 ◇


ローウェル卿の新作発表から十日後、王都は困り始めた。困り始めると、王都の文書は急に丁寧になる。


 宮廷錬金局の封蝋がついた発注書には、「アーヴェン辺境伯領における回復薬供給能力の確認」と書かれていた。言い回しは穏やかだが、内容は分かりやすい。北境の兵に納める予定だった王都薬が足りない。


 ローウェル卿の青雫の霊薬は貴族向けの注文で手一杯。ついては、辺境で調合している薬を一部、王都にも回せ。最後の行に、調合者名の記載は不要とあった。不要。その言葉を見た瞬間、指先が冷えた。


「不要、ですか」


 ビアンカが低く呟く。


「また同じことをなさるおつもりですね」


「まだ決まっていません」


「文面で決まっています」


 彼女の怒りは正しい。けれど、怒りだけで返事を書くと、相手に都合よく切り取られる。わたしは発注書を読み直した。


 王都に薬を回すこと自体は、悪ではない。必要な患者がいるなら、薬は届くべきだ。ただし、名を消し、責任の所在を曖昧にし、こちらの不足を無視して持っていくのなら断る。仕事として、断る。


 会議室では、セドリック様とマリウスさん、文官のレナードさんが待っていた。発注書を机に置くと、レナードさんが眼鏡を押し上げる。


「王都らしい文面ですな。相手の善意にただ乗りしつつ、責任は持たない」


「返答案を作りました」


 わたしは書いた紙を差し出した。一つ。アーヴェン領内の医療用備蓄を下回る量は出荷しない。二つ。出荷する場合は、瓶に調合者名、用途、使用量、禁止事項を記載する。三つ。青雫の霊薬と混同されないよう、名称を分ける。


 四つ。価格は王都向け特別価格ではなく、材料費と検査費を含む正規価格とする。五つ。使用後の経過報告を返送する。レナードさんは読み終えると、口元に笑みを浮かべた。


「よろしい。実に嫌がられる返答です」


「嫌がらせではありません」


「もちろんです。正しい条件は、怠けたい者には嫌がらせに見えるのです」


 セドリック様が小さく咳をした。笑いを隠したのかもしれない。


「量はどの程度出せる」


「通常回復薬なら、月に百本。ただし領内備蓄を削らない範囲です。高位回復薬は二十本まで。雪まめ草外用薬は、試験中ですが結果が安定すれば増やせます」


「無理をすれば」


「無理をしません」


 即答すると、部屋が一瞬静かになった。セドリック様は、少しだけ満足そうに頷いた。


「それでいい」


 王都では、無理をすることが誠意だった。寝ずに作り、食事を抜き、指が荒れても瓶を洗う。納期に間に合えば感謝され、間に合わなければ責められる。ここでは、無理をしないことが条件になる。まだ慣れないが、慣れなければならない。


 返答書は、アーヴェン辺境伯家の封蝋で送られた。数日後、宮廷錬金局から再び手紙が来た。今回は、文面が少し硬い。調合者名の記載については、王宮納品物の統一規格に反するため再考を求める。


 用途や禁止事項の細かな記載は、受け取る側に不安を与えるため控えるべきである。価格については、王国への奉仕の精神を鑑み――。わたしはそこまで読んで、紙を机に置いた。


「奉仕の精神」


 ビアンカが乾いた声で言った。


「都合の良い言葉です」


「ええ」


 けれど、今度は迷わなかった。返答は一行で足りる。条件を満たさない発注は受けられません。リリアナ・ヴェルネ。署名を書いたあと、しばらく紙を見つめた。たった一行なのに、三年かかった。


 その日の夕方、工房では通常回復薬の調合が進んでいた。瓶の一つ一つに札を貼る。用途、使用量、調合日、調合者名。ノラが札を乾かしながら言った。


「王都の人、こんなに説明があったら安心しませんか」


「安心する人もいます。面倒だと思う人もいます」


「面倒な人は、読まなくて失敗しますよ」


「だから、読まなくても目立つように赤線を引きます」


 ノラは真剣な顔で赤線を引き始めた。工房の窓の外では、城壁の上に夕日が落ちていく。寒い光だったが、作業台の上の瓶は温かい色をしていた。王都へ送るかどうかは、まだ分からない。けれど、送るならわたしの名で送る。


 その条件は、もう揺らがなかった。

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