第10話 失敗品の匂い
コレット様の持ち込んだ小瓶を開けると、工房に甘い匂いが広がった。薬の匂いではない。香油で隠した失敗品の匂いだった。
青晶草の刺激臭を消すために、薔薇油を多く混ぜている。表面だけなら上品に感じるかもしれない。けれど、瓶口に残る重い苦みは隠せていなかった。
「これを肌に使わせたんですか」
ノラが顔をしかめる。
「美容にも良い、と言ったそうです」
「美容って、皮が剥けたら駄目じゃないですか」
「その通りです」
わたしは検査皿へ一滴落とした。月苔粉を加えると、液体はすぐに濁った紫へ変わる。青晶草の残留が多い。外傷にすら慎重に使うべき濃度だ。次に、銀葉試験紙を浸す。端が黒くなった。
「混入物があります」
マリウスさんが覗き込む。
「毒ですか」
「毒と呼ぶほどではありません。ただ、保存料として使う灰塩が多すぎます。内服すれば胃を傷めます。肌に使えば赤くなる」
「なるほど。売り物にしてはいけないものですな」
マリウスさんの声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。コレット様は隣の椅子で、手の甲を押さえている。証言のため、検査に同席していた。青いリボンは外し、膝の上に置いている。
「エドガー様は、これを失敗品とはおっしゃいませんでした」
「失敗品は、認めなければ成功品に変わるわけではありません」
言いながら、胸の奥が少し痛んだ。何度も同じことを言った。失敗した瓶を捨てましょう。記録しましょう。原因を見ましょう。色が似ているだけでは危険です。エドガーはそのたび、顔を曇らせた。君は僕を信じない。君は夫を支える気がない。
君の細かさは、僕の才能を曇らせる。夫婦の言葉に包まれると、技術の話はいつも感情の話へ変えられた。今は違う。これは、検査結果だ。
「記録します」
わたしは帳面を開いた。試料名、青雫の霊薬試供品。提供者、コレット・ダリアス。症状、手甲部の発赤。検査結果、青晶草残留過多、灰塩過多、香油による匂いの隠蔽。最後の言葉を書く時、ペン先が少し強く紙を押した。隠蔽。それは、失敗より重い。
失敗は直せる。隠せば広がる。午後、コレット様の証言書を作成した。彼女は何度も書き直した。最初の文面は、エドガーをかばうような曖昧さが残っていた。次の文面は、自分を責めすぎていた。最終的に、事実だけを並べる形にした。
誰から受け取ったか。どんな説明を受けたか。どこへ売る予定だったか。自分にどんな症状が出たか。余計な感情は入れない。
「事実だけの方が、怖いのですね」
書き終えたコレット様が言った。
「飾ると、言い訳に見えます。事実は、飾らなくても重いです」
「舞踏会での私の言葉も、事実として残りますか」
「必要なら」
彼女は苦笑した。
「残してください。私は、何も知らなかったと言いたい。でも、知ろうとしなかったことは事実です」
その言葉に、わたしは少しだけ目を伏せた。知ろうとしなかった。わたしにもある。夫の名で成果が出ることに、最初は疑問を持った。けれど、夫婦だからと自分に言い聞かせた。指の傷を見ないふりをし、記録の表紙に自分の名を書かないままにした。
奪われたことと、差し出してしまったこと。どちらも本当だった。夕方、セドリック様が検査結果を確認しに来た。
「宮廷錬金局へ送る」
「はい。使用停止を急ぐ必要があります」
「ローウェルは反論するだろう」
「すると思います」
「君が個人的な恨みで検査結果を捻じ曲げた、とも言う」
その言葉に、胸が小さく縮んだ。想像していなかったわけではない。けれど、人に言われると現実味が増す。セドリック様は、検査皿の横に置かれた記録を指した。
「だから、手順を残す。誰が見ても同じ結果になるように」
「はい」
「君の感情は、ここに入れなくていい。だが、感情がないふりもしなくていい」
わたしは顔を上げた。セドリック様の表情は、いつものように静かだった。
「怒っているだろう」
「……はい」
「なら、怒りを検査手順に変えればいい。雑に燃やすな。炉に入れろ」
その言い方があまりに真面目で、ビアンカがこらえきれずに笑った。ノラも、コレット様も、少しだけ笑った。わたしも笑った。失敗品の匂いは、まだ工房に残っている。けれど、そこへ記録のインクの匂いと、洗浄液の清潔な匂いが混じり始めていた。
隠された失敗を、見える形へ。それが、今できる一番確かな反撃だった。
◇
アーヴェン東工房という木札は、雨に弱かった。ノラが丁寧に彫ってくれた文字は、二度目の雨で少し滲み、三度目の風で端が欠けた。入口に名前があるだけで嬉しかったはずなのに、欠けた木札を見ると、工房そのものが仮の居場所に見えてくる。
「ちゃんとした看板を作りましょう」
ビアンカが言った。
「まだ仮工房です」
「仮でも雨は降ります」
「それはそうですが」
「それに、町の方々が困っています。東工房と言うと、城の東倉庫と間違える方がいます」
確かに、昨日も薬草の納品が干し肉置き場へ届いた。干し肉置き場の兵士は親切に運び直してくれたが、薬草が燻製の匂いになってしまい、ノラが半日怒っていた。名前は、飾りだけではない。間違えずに届くための道具でもある。
昼休みに、工房の皆で名前を考えることになった。ノラは張り切って紙を広げた。
「痛くない薬工房」
「薬が痛くないとは限りません」
「じゃあ、捨てる勇気工房」
「患者さんが入りにくいです」
ビアンカが次に言った。
「ヴェルネ工房」
「それは少し」
「名前を出す練習です」
「練習にしては大きすぎます」
マリウスさんは、腕を組んで考えた。
「北境実用錬金術供給所」
「長いです」
「役所のようですね」
「分かりやすいと思いましたが」
会議室に笑いが起きた。セドリック様はしばらく黙っていたが、やがて窓の外へ視線を向けた。
「星濾工房」
短い言葉だった。部屋が静かになる。
「星を濾す、ですか」
わたしが聞くと、彼は少しだけ肩をすくめた。
「北の夜は星がよく見える。君の濾過瓶は、濁った水から光を残すように見えた」
その説明は、少し詩的すぎた。けれど、嫌ではなかった。ノラは目を輝かせた。
「いいです! かっこいいです!」
「かっこよさで決めるものではありません」
「呼びやすいです。星濾工房。ほしこし、ですか?」
「せいろ、でも読めますな」
マリウスさんが顎に手を当てる。
「星濾。悪くありません。濾過技術だけでなく、不要なものを除いて必要なものを残す、という意味にも取れます」
不要なものを除いて、必要なものを残す。失敗品を捨てること。余計な香油を剥がすこと。夫の名の下に混ぜられた自分の仕事を、もう一度濾し分けること。その意味を考えると、胸の奥が静かに温まった。
「ですが、工房名にわたしの名が入りません」
ビアンカが不満そうに言った。セドリック様は真面目な顔で答える。
「看板の下に、責任者名を入れればいい」
逃げ道を塞がれた気がした。ノラがすぐに紙へ書く。星濾工房。責任者、リリアナ・ヴェルネ。文字にされると、かなりはっきりしている。
「大きくないでしょうか」
「看板ですから、大きくなければ読めません」
ビアンカの返事は容赦がなかった。その日の午後、ゲイル老兵が木材を持ってきた。北の硬い木で、雨に強いという。ノラが下絵を描き、ゲイルが彫り、ビアンカが塗料を混ぜた。わたしは仕事があると言いながら、何度も様子を見に行ってしまった。
看板作りに、こんなに人の手がかかるとは思わなかった。夕方、入口に新しい看板が掛けられた。星濾工房。責任者、リリアナ・ヴェルネ。文字は簡素で、飾りは少ない。けれど、雨に濡れても消えない深い色をしていた。
町の人が通りかかり、足を止める。
「ここが星濾工房かい」
「はい」
ノラが得意げに返事をする。
「東井戸の濾過具を作ったところだろう。うちの母が礼を言ってたよ」
「ありがとうございます」
わたしが頭を下げると、その人は少し驚いた顔をした。
「責任者さんかい」
「はい。リリアナ・ヴェルネです」
言えた。工房の入口で、自分の名を。夜、仕事を終えて看板を見上げた。星はまだ出ていない。空は曇っている。それでも、看板の文字は工房の灯を受けて静かに光っていた。仮の居場所だった場所に、名前が付いた。
名前が付いたからには、明日からもっと忙しくなるだろう。不思議と、それが怖いだけではなかった。




