第11話 冬市の薬湯
アーヴェンの冬市は、春にも開かれる。理由を聞くと、ノラが当然のように答えた。
「北では、寒ければ冬です」
理屈としては乱暴だが、体感としては正しい。城下の広場には屋台が並び、毛織物、干し肉、蜂蜜、木工品、薬草束が売られている。空は晴れているのに風が冷たく、人々は厚い外套の襟を立てて歩いていた。星濾工房も、小さな屋台を出すことになった。
薬を売るのではなく、薬湯を配る。東井戸の件以来、町では喉を痛める人が多かった。銀葉草と蜂蜜を使った温かい薬湯なら、子どもでも飲みやすい。
「無料で良いのですか」
ビアンカが銅鍋を磨きながら聞いた。
「今日は試飲です。薬効を強くしすぎないので、説明も兼ねます」
「奥様、そういう時の説明が長いです」
「短くします」
「本当に?」
「紙に書きます」
「それは長い前提では」
ビアンカに言い返せず、わたしは説明札を半分に削った。市が始まると、薬湯の屋台には思ったより人が来た。
最初は、東井戸で世話になった家族たち。次に、砦から休暇で戻った兵士たち。イーサンも腕を吊らずに歩いており、痛くない薬の人だと大きな声で紹介してくれた。その紹介は少し困る。
「痛くないわけではありません」
「でも、前のより痛くない」
「それは事実です」
「なら、痛くない薬の人でいいじゃないですか」
周囲が笑った。王都の社交界で笑われるのとは、違う笑いだった。誰かを下げるためではなく、同じ場所にいることを確かめるような笑い。薬湯は、評判が良かった。
蜂蜜の甘さを少し控え、銀葉草の香りを残した。喉が温まり、胃にも重くない。子どもたちは最初、薬という言葉に警戒したが、ノラが自分で飲んで見せると次々に杯を受け取った。
「おいしいです」
小さな男の子が言った。
「薬なのに」
「薬でも、おいしくしていいのです」
「薬は苦いって、お母さんが」
「苦い薬もあります。でも、苦ければ効くわけではありません」
男の子は真剣な顔で頷いた。その横で、母親が少し笑っている。昼過ぎ、セドリック様が広場へ来た。護衛を連れているが、町の人たちは気軽に声をかける。辺境伯というより、厳しい町内の責任者に近い距離感だった。
「評判は」
「今のところ、鍋が足りません」
「それは良い問題だ」
「良い問題でも、鍋は増えません」
そう言うと、彼は隣の屋台から大きな鉄鍋を借りてきた。領主が鍋を運ぶ姿に、広場の人々が笑う。セドリック様は気にせず、こちらの台へ置いた。
「借り賃は払った」
「ありがとうございます」
「代わりに、一杯もらえるか」
「もちろんです」
薬湯を注ぐ。彼は手袋を外し、両手で杯を受け取った。飲む前に香りを確かめるところが、どこか兵の報告を読む時の彼に似ていて、少し可笑しかった。
「甘すぎない」
「蜂蜜を増やせば子どもは喜びますが、喉の薬としてはこのくらいがいいです」
「温まる」
「風邪の予防には、体を冷やさないことが一番です」
「君は薬より先に生活を見ているな」
何気ない言葉だったのに、手元が止まった。生活を見ている。王都では、発表台に乗る効能ばかり求められた。高位、希少、劇的、即効。けれど、ここで必要なのは、熱を出す前に喉を温める一杯だった。
「薬が必要になる前に防げるなら、その方がいいです」
「そういう仕事は、目立たない」
「はい」
「だが、町は覚える」
広場を見回す。ノラが子どもたちに薬湯を配り、ビアンカが空いた杯を洗い、イーサンが列を整理している。ゲイル老兵は木札に使い方を書き足していた。星濾工房は、少しずつ町の中に置かれていく。夕方、薬湯の鍋は空になった。
ノラは疲れ果てて木箱に座り込み、ビアンカは手を赤くしながらも満足そうだった。片づけをしていると、セドリック様が小さな包みを差し出した。
「これは?」
「隣の屋台で売っていた。君が見ていたから」
開くと、細い銀の計量匙だった。柄の先に、小さな星が彫られている。
「見ていただけです」
「欲しくないなら、工房備品にする」
「……欲しくないとは言っていません」
そう答えると、彼の目元がわずかに和らいだ。王都で贈られた宝石より、その計量匙の方がずっと嬉しかった。使うものだから。仕事を続けるためのものだから。
夜、工房へ戻ってから、銀の匙を記録机の引き出しに入れた。特別な箱ではなく、毎日開ける場所に。明日も使うために。
◇
冬市の翌朝、宮廷錬金局から召喚状が届いた。薬湯の鍋を洗い、工房の床を拭き、ようやく日常に戻ると思っていたところだった。封筒は厚く、紙は上等で、文面は丁寧だった。丁寧な文面ほど、面倒なことが書いてある。
リリアナ・ローウェル夫人に対し、青雫の霊薬に関する虚偽報告および宮廷納品妨害の疑いについて聴取を行う。七日以内に王都宮廷錬金局へ出頭すること。欠席の場合、ローウェル子爵家の代理証言をもって処理する。
最後の一文を読んだ時、ビアンカが声を上げそうになった。
「代理証言ですって?」
「出頭しなければ、エドガー様の話だけで決めるということですね」
「そんなもの、聴取ではありません」
「ええ」
わたしは召喚状を机に置いた。心臓は速く打っている。王都へ戻ることを考えると、喉の奥が詰まった。舞踏会の広間、ローウェル家の工房、父の書斎。戻りたくない場所はいくつもある。けれど、戻らなければ夫の物語だけが残る。虚偽報告。納品妨害。
彼は、わたしが危険な薬を止めようとしたことを、そう呼んだ。
「行きます」
言葉は、自分が思ったより早く出た。ビアンカがこちらを見る。
「本当に」
「はい。証拠があります。逃げれば、相手の言葉が記録になります」
セドリック様が召喚状を確認し、静かに言った。
「一人では行かせない」
「同席をお願いできますか」
「アーヴェン辺境伯家として抗議も出す。北境に納められた不良薬の件は、こちらの損害でもある」
「ありがとうございます」
「礼は後だ。準備するものは」
わたしは記録机へ向かった。不良瓶の検査結果。コレット様の証言書。オスカーさんの症状記録。砦への出荷記録。ローウェル家の工房登録停止通知。離縁状の写し。そして、三年分の調合記録の中から、青雫の霊薬の元になった試験部分。
全部を持っていくには重すぎる。けれど、必要なものを絞りすぎれば、相手に都合よく隙を突かれる。証拠の選別は、調合に似ている。強すぎれば濁る。弱すぎれば効かない。その日から、工房は王都行きの準備に入った。
レナードさんが文書の形式を整え、マリウスさんが医療被害の見解を書き、ビアンカが書類箱に布を張った。ノラは証拠瓶の番号札を作った。
「私も行きます」
ノラが言った。
「行けません」
「補助者名があるのに」
「だからこそ、工房を守ってください。王都へ全員で行ったら、こちらの患者を診る人がいなくなります」
少女は不満そうに唇を尖らせた。
「王都の人に、ヴェルネさんがすごいって言いたいです」
「言葉より、工房を動かす方が証明になります」
「……分かりました。半分だけ」
「全部です」
いつものやり取りをすると、少しだけ気持ちが落ち着いた。夜、書類箱を閉じたあと、セドリック様が工房に残っていた。彼は窓際で、王都への道程表を見ている。
「怖いか」
直球だった。わたしは少し迷い、それから頷いた。
「怖いです」
「何が一番」
「……エドガー様の声を聞いて、また説明しようとしてしまうことです」
夫が怒る。困った顔をする。君だけが分かってくれないと言う。その瞬間、以前のわたしは自分の正しさを疑った。もっと分かりやすく説明すれば、もう少し助ければ、夫も変わるのではないかと。セドリック様は道程表を閉じた。
「説明は、聞く気がある者にするものだ」
「はい」
「聞く気がない者には、記録を出す」
彼らしい答えだった。わたしは少し笑った。
「覚えておきます」
「それと、君が黙った時は、俺が止める」
「黙った時?」
「言うべきことを飲み込んだ時だ」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。そんなところまで見られているとは思わなかった。
「……お願いします」
王都へ戻るのは怖い。けれど、今度は工房の鍵も、記録も、名前も置いていかない。書類箱の上に、星濾工房の印を押した。小さな星の印は、乾いた紙の上で静かに光っていた。
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