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夫の功績にされていた天才錬金術師ですが、妻を辞めたのでポーションも魔導具も作りません  作者: 小竹X


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第12話 王都へ戻る馬車

王都へ戻る道は、来た時より長く感じた。馬車の窓から見える景色は同じはずだった。針葉樹の林、固い土の道、少しずつ増えていく畑、遠くに見える王都の尖塔。それでも、背中に積んだ書類箱の重さが、旅を別のものにしていた。


 今度は逃げるためではなく、証言するために戻る。それだけで、胸の痛みの種類が変わった。同行者は、セドリック様、レナードさん、護衛二名、ビアンカ。そしてコレット様だった。


 コレット様はダリアス家への帰宅を拒み、証言者としてアーヴェンの保護下に入った。馬車の中では、膝の上で手袋を握りしめている。青いリボンは付けていない。


「緊張していますか」


 わたしが聞くと、彼女は正直に頷いた。


「父に会うのが怖いです」


「証言をやめますか」


「やめません。でも、怖いです」


「怖いままで大丈夫です」


 言ってから、自分にも言い聞かせていることに気づいた。怖さは、引き返す理由になる時もある。けれど、準備を丁寧にする理由にもなる。わたしは書類箱をもう一度確認した。


「八回目です」


 ビアンカが言った。


「数えていたの?」


「奥様の癖ですから」


「ヴェルネ様の癖に訂正します」


「では、ヴェルネ様の癖です」


 少しぎこちない呼び方に、馬車の中が和らいだ。途中の宿場で、王都から来た商人たちと同じ食堂になった。彼らはわたしたちに気づかず、青雫の霊薬の噂を話していた。


「ローウェル卿も災難だな。妻が出ていって、あれこれ邪魔をしているらしい」


「女の嫉妬は怖いねえ」


「だが霊薬は本物らしいぞ。貴族の奥方が肌に塗ったら若返ったとか」


 コレット様の顔が青くなった。ビアンカが立ち上がりかけたので、わたしはそっと袖を掴んだ。


「今は、ここで争いません」


「ですが」


「記録に残らない場所で怒ると、ただの噂になります」


 言いながら、自分の胸の中で何かが熱くなっているのを感じた。女の嫉妬。便利な言葉だ。調合記録も、検査結果も、被害報告も、その言葉一つで感情の問題にされる。だからこそ、宮廷錬金局の場で言わなければならない。


 食堂を出る時、セドリック様がわたしの横に並んだ。


「よく止めた」


「止めただけです。内心では、鍋を投げたい気持ちでした」


「投げるなら、空の鍋にしろ。薬湯がもったいない」


 真面目な顔で言われて、思わず笑ってしまった。コレット様も、少しだけ笑った。王都へ近づくにつれ、道は滑らかになり、馬車の数も増えた。南門の衛兵は、アーヴェン辺境伯の紋を見てすぐに通した。門の内側には、懐かしい石の匂いがある。


 懐かしいのに、帰ってきたとは思わなかった。以前のわたしは、この街の中で自分の場所を探していた。伯爵家、ローウェル家、宮廷の廊下。どこも、夫や家の影を通してしか入れなかった。今は、星濾工房の責任者として入る。


 宿は、アーヴェン家が王都に持つ小さな屋敷だった。派手ではないが、清潔で、書類を保管する部屋がある。到着すると、レナードさんがすぐに明日の手順を確認した。


「聴取は午前十時。まずローウェル卿の陳述、次にヴェルネ様、続いて証言者。宮廷錬金局の局長ガルヴァンが議長役です」


「ガルヴァン局長……」


 その名を聞いて、胃が重くなった。エドガーの発表を何度も褒めた人だ。効能が派手な薬を好み、記録の細かさを嫌う。わたしの調合表を見て「女の家計簿のようだ」と笑ったことがある。セドリック様が、わずかに眉を動かした。


「何かあったか」


「以前、わたしの記録を軽く扱った方です」


「では、明日は記録の重さを知ってもらう」


 簡単に言う。けれど、その言葉に少し救われた。夜、王都の屋敷の窓から外を見ると、遠くに宮廷の灯が見えた。あの灯の下で、エドガーは明日、何を言うのだろう。わたしは怖い。けれど、書類箱の鍵を握る手は震えなかった。


 戻ってきたのは、妻としてではない。自分の仕事を証明するためだ。


 ◇


宮廷錬金局の聴取室は、舞踏会の広間より眩しかった。白い壁、磨かれた床、中央に置かれた長机。壁際には宮廷錬金術師たちが並び、貴族の傍聴人もいる。聴取と書かれていたが、実際には公開の場に近かった。エドガーは、先に座っていた。


 濃紺の礼服に、ローウェル家の徽章。少し痩せたように見えるが、笑みは整っている。わたしを見ると、彼は心配そうな顔を作った。


「リリアナ。来てくれてよかった」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥で古い習慣が動いた。謝らなければ。説明しなければ。けれど、隣に立つセドリック様が低く言った。


「記録を出す」


 短い言葉で、我に返った。


「本日は、リリアナ・ヴェルネとして出席します」


 わたしが答えると、エドガーの笑みが少し固まった。議長席には、ガルヴァン局長が座っていた。銀髪を後ろへ撫でつけ、指には大きな宝石の指輪。彼はわたしの名乗りを聞いて、わずかに鼻を鳴らした。


「法的には、まだローウェル夫人であろう。まあよい。まず、ローウェル卿の陳述を」


 エドガーは立ち上がった。彼の話は、よく整っていた。


 妻リリアナは、結婚以来精神的に不安定だった。夫の成功を自分のものだと誤解し、舞踏会で感情的に家を出た。青雫の霊薬についても、夫への嫉妬から虚偽の悪評を流している。自分は妻を責めるつもりはなく、戻ればすべて収まる。


 聞いているうちに、手のひらが冷たくなった。嘘だけではない。事実の形を少しずつ変え、都合の悪い部分を抜き、感情という言葉で包んでいる。だから、聞き慣れない人には本当らしく聞こえる。ガルヴァン局長は頷いた。


「夫婦間の不和が、宮廷納品に影響するのは困るな」


「その通りです」


 エドガーは悲しそうに眉を下げた。


「私はただ、妻の才能を家庭の中で正しく導いてやりたかっただけなのです」


 導く。その言葉で、何かが切れかけた。しかし、怒鳴らなかった。わたしは書類箱を開けた。


「発言してもよろしいでしょうか」


「簡潔に」


 ガルヴァン局長の声は退屈そうだった。わたしは、最初の書類を机に置いた。


「まず、錬金師組合の個人工房登録証です。登録名はリリアナ・ヴェルネ。登録日は結婚前です。次に、主抽出炉の登録者証明。こちらもわたしです」


 室内が少しざわめいた。エドガーの表情が変わる。


「それは、君が勝手に」


「次に、青雫外用薬の試験記録です。仮名は青雫ですが、用途は外傷の刺激軽減であり、内服、美容、老化防止の効能は記載していません」


 わたしは写しを配った。ガルヴァン局長が紙をつまむように持つ。


「細かすぎる記録だな」


「薬を使う人の体質が細かいからです」


 言えた。声は静かだった。


「さらに、アーヴェン領で検査したローウェル家出荷品の結果です。青晶草残留過多。灰塩過多。香油による刺激臭の隠蔽。こちらは同じ手順で再試験できます」


 レナードさんが証拠瓶を並べる。青い液体の底に、濁った沈殿が見えた。


「これは保存状態の問題かもしれん」


 ガルヴァン局長が言った。


「では、今ここで公開試験をお願いします」


 わたしは、あらかじめ用意していた試薬を出した。


「同じ瓶を三本、無作為に選んでください。月苔粉と銀葉試験紙で残留と灰塩を確認できます。手順は配布した紙の通りです」


 室内が大きくざわめいた。公開試験。夫の発表会では、成功した瓶だけが机に置かれた。今日の机には、選ばれていない瓶も置く。ガルヴァン局長は不快そうだったが、セドリック様が静かに口を開いた。


「北境に納められた薬の安全確認だ。宮廷錬金局が拒む理由はないはずだ」


 拒めない空気ができた。試験は、局の若い錬金術師が行った。一滴、検査皿へ落とす。月苔粉を加える。液体は濁った紫へ変わった。二本目も、三本目も。銀葉試験紙の端が、黒く染まる。傍聴人のざわめきが、今度は別の種類へ変わった。


 エドガーは立ち上がりかけた。


「保存が悪かったのだ。辺境の管理に問題が」


「封を切ったのは、この場です」


 レナードさんが言った。わたしは、エドガーを見た。


「あなたが作ったというなら、工程を説明してください。青晶草の三日目乾燥品を使う場合、どの温度で低温抽出しましたか。灰塩を加える前に、残留魔力をどう測りましたか」


 エドガーの唇が動いた。言葉は出なかった。その沈黙は、どんな怒鳴り声より大きかった。わたしは書類の最後を机に置く。


「わたしは夫婦間の不和を持ち込んでいるのではありません。危険な薬の流通を止めに来ました」


 聴取室の空気が、はっきり変わった。公開試験の机の上で、青い沈殿は隠れなかった。

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