第13話 エドガーの手袋
公開試験のあと、エドガーは初めて取り乱した。
「彼女は昔から、私の研究を細かいことで邪魔してきたのです!」
聴取室に響いた声は、舞踏会の時より高かった。
「薬に多少の刺激はつきものだ。高位薬なのだから、体が反応するのは当然だろう。貴族の方々は効果を喜んでいる。辺境の粗末な保存環境で変質した薬を持ち出して、私を貶めようとしているだけだ」
彼は手袋をした右手で机を叩いた。白い手袋。その指先に、薄い青い染みがあることに気づいた。
青晶草の抽出液は、洗っても数日は色が残る。けれど、エドガーはこれまで調合台に長く立つことを嫌った。染みがあるということは、最近になって自分で大量に扱ったということだ。そして、染みの位置がおかしい。
親指と人差し指の付け根に濃くついている。抽出液を注ぐ時ではなく、濾過布を素手で絞った時の付き方だった。濾過布を絞る。絶対にしてはいけない工程だ。
「エドガー様」
わたしは静かに呼んだ。
「その手袋を、外していただけますか」
彼の動きが止まる。
「何を言う」
「青晶草の染みがあります。濾過工程の確認に必要です」
「侮辱だ」
「薬の安全確認です」
ガルヴァン局長が眉をひそめた。
「手袋など関係あるまい」
「あります。青晶草の抽出液は、正しく濾過器を通せば指の付け根には付きません。濾過布を手で絞ると、沈殿が再混入します」
若い錬金術師たちが、互いに顔を見合わせた。その一人が小さく頷く。
「確かに、濾過布を絞ると残留が増えます」
ガルヴァン局長の顔色が変わった。エドガーは手を引いた。
「くだらない。私は宮廷錬金術師だぞ」
「だからこそ、手順を示してください」
「君は妻だ。夫を疑うのか」
その言葉が、聴取室の中央に落ちた。以前のわたしなら、そこで口を閉じたかもしれない。夫を疑うのか。家を壊すのか。愛はないのか。けれど、机の上には濁った薬があり、傍聴席にはコレット様がいる。北の砦には、この薬で苦しんだ兵がいる。
夫婦の言葉で、薬の話を消してはいけない。
「疑っています」
はっきり言った。エドガーの目が見開かれる。
「妻としてではなく、錬金術師として疑っています。あなたの薬は危険です」
室内が静まり返った。セドリック様が、わずかにこちらを見る。止める必要はない、と判断したのだろう。何も言わなかった。エドガーは笑おうとした。うまく笑えなかった。
「君は、僕の才能がなければ何もできない女だった。僕が発表の場を与えてやったから」
「発表の場に、わたしの名はありませんでした」
「夫婦なのだから、同じことだ」
「同じではありません」
声は震えなかった。
「失敗した時だけ、わたしの責任になりました。成功した時だけ、あなたの才能になりました。薬は、それでは作れません」
ガルヴァン局長が咳払いをした。
「個人的な話はそこまでに」
「では、技術の話に戻します」
わたしは、机の上に白い濾過布を置いた。
「同じ抽出液を二つに分けます。一つは正規の濾過器で、もう一つは濾過布を手で絞ります。残留試験をすれば、どちらの工程に近いか分かります」
公開試験の二回目は、さらに静かだった。若い錬金術師が抽出液を分ける。正規濾過の液は澄み、手で絞った液はわずかに濁った。月苔粉を加えると、手で絞った方だけが濃い紫へ変わる。そして、エドガーの出荷品も同じ色だった。
誰もすぐには口を開かなかった。エドガーは手袋を握りしめている。その指先の青い染みは、もう隠れなかった。
「ローウェル卿」
セドリック様が初めて、彼へ直接声を向けた。
「北境に納めた薬で兵が苦しんだ。貴殿は保存環境のせいにした。だが、工程に問題があるなら話は別だ」
「辺境伯殿、これは」
「言い訳ではなく、工程を答えろ」
エドガーは答えられなかった。その沈黙で、わたしの胸は晴れなかった。ざまあみろ、と思えたら楽だったかもしれない。けれど、目の前にいるのは、かつて愛そうとした人だった。彼の愚かさで傷ついた人がいて、その中には彼自身も含まれている。
それでも、止めなければならない。情けをかける場所を間違えれば、薬はまた誰かを傷つける。ガルヴァン局長は、渋い顔で次の手続きを告げた。青雫の霊薬は、調査終了まで使用停止。ローウェル子爵家の宮廷納品は一時停止。関係者の追加証言を行う。
エドガーは椅子に沈むように座った。白い手袋の青い染みだけが、机の上でやけにはっきり見えた。
◇
追加証言は、午後に行われた。聴取室の空気は、午前より重かった。青雫の霊薬の使用停止が決まり、傍聴人たちは小声で噂を交わしている。誰もが、誰の責任になるのかを探していた。最初に証言台へ立ったのは、イーサンだった。
北の砦から王都へ来るのは、彼にとって負担が大きい。腕の傷は癒えかけているが、長旅で疲れた顔をしていた。それでも背筋は伸びている。アーヴェンの灰色の外套を着て、胸元に銀鷹の留め具をつけていた。
「名を」
ガルヴァン局長が言う。
「イーサン・ベル。アーヴェン北砦所属の兵です」
「青雫の霊薬を使ったのか」
「使われました。魔狼の噛み傷に、王都から買い付けた回復薬を」
彼は左肩に触れた。
「傷はすぐ塞がりました。でも、その夜から熱が出ました。肩の内側が焼けるようで、眠れませんでした。二日目には、歩けなくなりました」
室内のざわめきが少し落ちる。薬害の話は、紙の上より人の声の方が重い。
「その後、リリアナ・ヴェルネ殿の治療を受けました。傷を少し開いて、残った毒を出してもらいました。痛かったですが、前の薬のような焼ける痛みはありませんでした」
エドガーが顔を上げた。
「兵士の体質の問題ではないのか。戦場の者は、傷も多い。すべて薬のせいとは」
イーサンは彼を見た。若い兵士の目には、怒りよりも疲れがあった。
「体質の問題なら、瓶に書いてください。誰に使ってはいけないのか、どの痛みが危険なのか。俺たちは戦場で傷を選べません。だから、薬を信じるしかないんです」
その言葉は、聴取室の白い壁にまっすぐ当たった。エドガーは黙った。
次に、北砦の医療係が証言した。青雫の霊薬を使った兵のうち、発熱した者が五名。胃痛を訴えた者が三名。王都薬を使用しなかった軽傷者には同じ症状が出ていないこと。アーヴェンの記録は丁寧で、日付、瓶番号、症状の経過が揃っていた。
ガルヴァン局長は不機嫌そうに紙をめくった。
「辺境はずいぶん記録が細かいな」
以前なら、その言い方に恥じたかもしれない。今は違う。細かい記録が、人を守っている。続いて、コレット様が立った。彼女は顔色が悪かったが、声ははっきりしていた。
「私は、エドガー・ローウェル卿から青雫の霊薬の試供品を受け取りました。美容にも良い、肌に塗れば若返ると説明されました。手の甲に使い、赤く腫れました」
傍聴席から、小さなざわめきが起きる。貴族の女性たちは、兵士の胃痛よりも自分の肌の赤みに近い危険を想像したのだろう。残酷だが、そういう現実もある。
「ダリアス家の商会を通じて販売する話もありました。私は関与を拒否します」
「コレット嬢」
エドガーが悲しげに言った。
「君まで、私を裏切るのか」
彼女の肩が一瞬震えた。わたしは思わず立ち上がりかけたが、コレット様は自分で息を吸った。
「裏切るのではありません。もう、知らなかったことにしないだけです」
その言葉に、わたしは胸の奥で頷いた。知らなかったことにしない。それは、今この場にいる者全員へ向けられた言葉でもあった。最後に、オスカーさんが証言した。
彼はローウェル家の事務係として、出荷記録の改竄を命じられたことを話した。失敗品の瓶番号を別の帳簿へ移すよう言われたこと。使用人の体調不良を記録から消すよう指示されたこと。リリアナの記録を探し、なければ似た色で作れと言われたこと。
声は何度か震えた。それでも、彼は最後まで言った。
「私は、記録を捨てませんでした。捨てていたら、もっと多くの人が同じ薬を使ったと思います」
ガルヴァン局長は、もう簡単には笑えない顔をしていた。エドガーは椅子に座ったまま、白い手袋を握りしめている。証言の終わりに、わたしは発言を求めた。
「青雫の霊薬という名で出回った薬は、わたしの試験記録を元にしています。ですが、用途も濃度も異なります。わたしは、その薬の効能を保証しません。今後、わたしの記録や名を使う場合は、本人の署名と検査手順を必須にしてください」
「要求が多いな」
ガルヴァン局長が言う。
「薬を使う人の命も多いので」
今度は、傍聴席から小さな笑いが起きた。嘲笑ではない。少なくとも、そう聞こえた。聴取室を出る時、イーサンが近づいてきた。
「ヴェルネさん。言いたいこと、言えましたか」
「全部ではありません」
「じゃあ、まだ続きますね」
「はい」
彼は笑った。
「なら、北に帰ったら薬湯ください。王都は喉に悪い」
その言い方に、緊張が少し解けた。王都は喉に悪い。本当に、その通りだった。




