第14話 離縁状の最後の欄
錬金局の聴取が終わっても、王都での用事は終わらなかった。むしろ、わたしにとっては次の用事の方が重かった。離縁の正式手続き。
場所は王都法務院の小さな部屋だった。宮廷の華やかさとは違い、壁は灰色で、机は傷だらけ。窓から入る光も柔らかくはない。けれど、ここで押される印は、舞踏会の拍手よりずっと強い。エドガーは、遅れて来た。
前日の聴取で疲れたのか、顔色は悪い。白い手袋は新しいものに替えられていた。けれど、どれだけ綺麗な手袋をしても、青い染みを見た記憶は消えない。
「リリアナ」
彼は、法務官が書類を準備している間に声をかけてきた。
「昨日のことは、誤解が多かった。君も疲れているだろう。今ならまだ、家に戻れる」
その言葉に、驚きはなかった。彼は本当に、戻れば元通りになると思っているのだろう。宮廷納品が停止され、証言者が立ち、公開試験で失敗が示されても、妻が戻れば自分の物語が修復されると思っている。
「戻りません」
「意地を張るな。君は社交界を知らない。辺境で少し褒められたからといって、女一人で続けられるわけがない」
昔のわたしなら、その言葉に不安を覚えた。今も、不安が消えたわけではない。けれど、続けられるかどうかを夫に決めてもらう必要はない。
「続けられるように、条件を整えます」
「条件?」
「契約、記録、工房、協力者。あなたの機嫌ではなく、仕組みで続けます」
エドガーは眉を寄せた。
「君は変わった」
「変わらなければ、壊れていました」
言葉にすると、静かに響いた。法務官が咳払いをした。
「では、手続きを始めます。ローウェル子爵、リリアナ・ローウェル夫人。双方、離縁の意思確認を」
「私はまだ同意していない」
エドガーは即座に言った。法務官は眉を上げた。
「提出書類には、妻側からの離縁申立と、婚姻契約違反の証拠が添付されています。夫側の異議は受け付けますが、昨日の宮廷錬金局の暫定判断も資料に入ります」
レナードさんが用意した書類は、分厚かった。夫による個人研究成果の無断発表。妻の個人登録設備の無断使用未遂。危険な納品指示。公の場での侮辱。そして、妻の私財から出した材料費の未払い。法務官は淡々と読み上げた。
エドガーの顔色が、少しずつ変わっていく。
「これは夫婦間の協力だ。彼女は妻として」
「夫婦間の協力であっても、個人登録の錬金術成果の無断発表は、組合規約違反です」
「彼女は僕の妻だ」
「その妻が離縁を求めています」
法務官の声には、感情がない。その事務的な冷たさが、今はありがたかった。長い確認のあと、書類の最後の欄がこちらへ回された。署名欄。リリアナ・ローウェル。その印字を見て、手が止まった。
この名前で過ごした三年がある。苦しいだけではなかった日も、確かにあった。エドガーがまだ優しく見えた時、工房で初めて共同研究だと信じた時、夫婦になれるかもしれないと思った時。全部が嘘だったわけではない。
でも、嘘ではなかったからといって、続ける理由にはならない。わたしはペンを取った。リリアナ・ローウェル。最後の一度として、その名を書いた。次の欄に、離縁後の使用名を記す。リリアナ・ヴェルネ。その文字は、前の欄よりまっすぐだった。
エドガーは、書類を見つめていた。
「君は、本当に僕を捨てるのか」
捨てる。そう言われると、かつての痛みが戻りかける。けれど、捨てられたのはわたしの名で、夜で、指の傷で、記録だった。
「違います」
わたしは静かに言った。
「わたしは、わたしを拾いに行きます」
法務官が印を押した。乾いた音が、部屋に響く。その音で、三年の婚姻は正式に終わった。外へ出ると、王都の空は曇っていた。泣くかと思った。でも涙は出なかった。代わりに、肩から重い外套が一枚落ちたような感覚があった。
セドリック様が、少し離れた場所で待っていた。
「終わったか」
「はい」
「では、北へ帰る準備をしよう」
帰る。その言葉に、今度は胸が温かくなった。王都を出る時、わたしは法務院の階段で一度だけ振り返った。リリアナ・ローウェルは、ここで終わる。けれど、リリアナ・ヴェルネの仕事は、まだ始まったばかりだった。
◇
北へ帰る前日、わたしは錬金師組合を訪ねた。
王都で最後に寄る場所としては、もっと晴れやかな場所を選んでもよかったのかもしれない。けれど、組合の古い階段を上ると、少しだけ落ち着いた。薬草と紙と古い木の匂い。ここには、結婚前のわたしが自分の名を登録した記録がある。
受付の女性は、わたしを見るとすぐに立ち上がった。
「リリアナ・ヴェルネ様。昨日の件、組合にも速報が届いております」
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではありません。むしろ、登録名と実際の調合者の扱いについて、組合内で見直しが始まっています」
それは意外だった。わたし一人の離縁で、制度がすぐ変わるとは思わない。けれど、話し合いが始まるなら、それだけでも意味がある。奥の資料室で、古い登録簿を見せてもらった。リリアナ・ヴェルネ。
十七歳の筆跡は、今より少し丸い。師匠の推薦印が横に押されている。あの時のわたしは、ただ薬を作りたかった。家や結婚や社交界の中で、いつかこの名が薄まるとは考えていなかった。
「師匠の工房は、今どうなっていますか」
受付の女性は少し表情を曇らせた。
「先生は三年前に亡くなられました。工房は弟子の方が継いでいますが、規模は小さくなっています」
「そうですか」
胸が少し痛んだ。結婚式の直前、師匠はわたしに濾過紙を一束くれた。名前だけは誰にも混ぜるな。そう言っていた。
その濾過紙は、ローウェル家の工房で使い切ったと思っていた。けれど、調合記録の間から一枚だけ残っていることに、北へ来てから気づいた。わたしは鞄から、その濾過紙を取り出した。
薄い紙の端に、師匠の工房印がある。王都の湿気で少し波打っているが、まだ使える。
「これを、登録更新の記念として保管したいのですが」
「もちろんです」
受付の女性は、新しい登録証を用意してくれた。リリアナ・ヴェルネ。所属、アーヴェン星濾工房。責任者。その文字を見た時、ふっと息が漏れた。責任者。重い言葉だ。
でも、今度は一人で重くない。工房にはビアンカがいる。ノラがいる。マリウスさんがいる。セドリック様が、契約で環境を守ってくれる。組合を出ると、王都の通りは賑やかだった。
青雫の霊薬の使用停止は、すでに噂になっている。薬舗の前では、張り紙を見て人々が話し込んでいた。中には怒っている人もいる。高い金を払ったのに、危険だと言われたのだから当然だ。その怒りは、これから誰かへ向く。
エドガーだけで済むかどうかは分からない。宮廷錬金局も、商会も、発表を称えた貴族たちも、少しずつ責任を押し合うだろう。わたしにできることは、証拠を残し、危険な薬を止め、北で必要な薬を作ることだ。宿へ戻る途中、セドリック様と合流した。
彼は文官たちとの打ち合わせを終えたところで、手に数枚の書類を持っていた。
「組合はどうだった」
「登録更新ができました」
新しい登録証を見せると、彼はしっかり目を通した。
「星濾工房の名が入ったな」
「はい」
「北へ戻ったら、看板の下に組合番号も入れよう」
「そこまで目立たせるのですか」
「見つけてもらうためだ」
ノラと同じことを言う。そう思うと、少し笑ってしまった。
「何かおかしいか」
「いいえ。アーヴェンの方々は、名前を隠させてくれないと思いまして」
「隠した方がいい名もある。だが、君の仕事は隠すべきではない」
その言葉に、歩みが少し遅くなった。王都の人混みの中で、隣を歩く彼の存在は不思議だった。夫でも家族でもない。けれど、わたしの名を守ることを当然のように言う。それが、少し怖い。嬉しさに慣れていないからだ。
宿へ戻ると、机の上に北からの早馬便が置かれていた。差出人はマリウスさん。内容を読んだ瞬間、王都での余韻は消えた。城下南区で、原因不明の高熱が三例。喉に灰色の斑点。東井戸の時とは違う。灰冠熱の疑い。紙を持つ手に力が入った。
セドリック様もすぐに表情を変えた。
「明朝ではなく、今夜出る」
「はい」
濾過紙に残った名前を胸にしまい、わたしは荷物をまとめた。離縁の終わりは、休む時間にはならなかった。けれど、今度は逃げるためではない。帰る場所で、必要とされているから戻るのだ。
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