第15話 灰冠熱の前触れ
灰冠熱は、北境で最も嫌われる病の一つだった。高熱、喉の灰色斑、手足の冷え。重くなると、髪の生え際に灰をかぶったような輪が出る。その名の通り、灰の冠だ。子どもと年寄りは特に危ない。馬車の中で、マリウスさんの報告を読み返した。
患者三名。南区の織物職人の家族。共通点は、同じ井戸でも同じ食事でもない。三日前の冬市には全員が来ていた。冬市。わたしは薬湯の鍋を思い出した。
「薬湯が原因でしょうか」
コレット様が不安そうに聞いた。彼女は証言後、王都に残るか迷っていたが、ダリアス家がエドガーとの関係を切るまでアーヴェンの保護下にいることになった。今も北へ同行している。
「今のところ、分かりません。ただ、薬湯ならもっと広く出るはずです。飲んだ人数が多いので」
言葉で整理しても、不安は消えない。もし自分の作ったものが原因なら。その可能性を、否定したいから否定するのは危険だ。
わたしは冬市で配った薬湯の材料記録を取り出した。銀葉草、蜂蜜、水、乾燥月苔。すべて記録してある。水は西井戸。煮沸済み。鍋の洗浄記録もある。記録があることが、少しだけ呼吸を助けた。アーヴェンへ戻ると、城下はいつもより静かだった。
南区の家々には、入口に白い布が結ばれている。発熱者がいる印だ。まだ数は多くない。けれど、灰冠熱なら広がる前に動かなければならない。治療室では、マリウスさんが待っていた。
「お戻りを待っていました。患者は五名に増えました」
「増え方が早いですね」
「ええ。南区の織物工房で働く者が中心です」
織物工房。冬市で売られていた毛織物を思い出した。
「作業場を見ます」
「防護をしてからです」
セドリック様が言った。彼はすでに外套を脱ぎ、指揮官の顔になっている。
「南区を一時的に区切る。水と食料は城から運ぶ。市場は三日停止。噂が広がる前に、理由と対策を掲示する」
「封鎖ですか」
コレット様が青ざめる。
「隔離だ。閉じ込めるだけではない。必要なものを届ける」
セドリック様の声は厳しい。けれど、その厳しさの中に、町の人を責める響きはなかった。わたしは防護布を身につけ、南区へ向かった。
織物工房の中は、羊毛と染料の匂いが強かった。床には細かな灰色の粉が落ちている。毛を柔らかくするための鉱粉だと職人が説明した。
「最近、粉を替えましたか」
「王都の商人が安く売っていたんです。冬市前で大量に必要だったので」
職人は不安そうに袋を持ってきた。袋を開けた瞬間、喉の奥がざらついた。灰塩。
青雫の霊薬で使われていた保存料と同じ系統だ。量を誤ると喉を荒らし、熱を誘発する。灰冠熱そのものではないが、似た症状を作り、弱った体に本物の病が重なれば危険だ。
「この粉の使用を止めてください。作業場の換気を。床は乾いた箒ではなく、濡れ布で拭きます」
「病なんですか」
「病の前に、喉を傷つける粉です。すぐ対処すれば広がりを抑えられます」
わたしは袋の印を確認した。王都商会の名。ダリアス家ではない。だが、ローウェル家が青雫で使った灰塩が、別の形で流れている可能性がある。失敗品は、捨てなければならない。捨てなかったものは、別の場所で人を傷つける。
工房へ戻ると、ノラが駆け寄ってきた。
「ヴェルネさん! 患者さんが増えてます。何を作ればいいですか」
「喉を守る薬湯を濃くします。解熱薬は子ども用と大人用を分けて。灰塩を吸った人には、月苔のうがい液を」
「はい!」
工房が一気に動き出した。ビアンカが瓶を洗い、ノラが札を書き、マリウスさんが患者リストを読み上げる。コレット様も、手袋をはめて布を畳み始めた。
「私にもできることを」
彼女は言った。
「では、配布用の説明札をお願いします。字が綺麗ですから」
「はい」
少し前まで社交界の中心を見ていた令嬢が、工房の隅でうがい液の説明札を書いている。人は、置かれる場所で変わる。わたしもそうだった。夜になっても、工房の灯は消えなかった。灰冠熱か、灰塩の中毒か、それとも両方か。まだ答えはない。
けれど、前触れを見逃さなければ、守れるものがある。わたしは記録帳の新しいページに、南区灰冠熱疑い、と書いた。その下に、今日の最初の処方を書き始めた。
◇
星濾工房の夜は、炉の音で満ちていた。主炉では解熱薬の抽出を行い、脇の小炉では月苔のうがい液を温めている。乾燥棚には銀葉草が広げられ、作業台には瓶が並ぶ。外は冷たい夜だったが、工房の中は汗ばむほどだった。患者は、さらに増えた。
重症ではない。今のところは。けれど、灰塩で喉を傷めた人に本物の灰冠熱が入れば、進行は早い。マリウスさんは治療室で患者を分け、セドリック様は南区の出入りを管理している。わたしの仕事は、薬を切らさないことだった。
「子ども用、二十本できました」
ノラが瓶を木箱へ入れる。
「札は」
「黄色です。大人用は白、うがい液は緑」
「よくできました」
ノラは頷いたが、目の下に疲れが出ている。
「少し休んで」
「でも」
「交代です。あなたが倒れたら、札を読めない人が困ります」
少女は不満そうにしたが、ビアンカに毛布を渡されると、椅子で丸くなった。休ませることは、難しい。相手を休ませるのも、自分が休むのも。
王都の工房では、休むことを罪のように感じていた。今も、その感覚が残っている。炉の火がある限り、手を止めてはいけない気がする。でも、止めなかった結果がどうなるか、わたしは知っている。
指が震え、濾過を誤り、瓶を落とす。疲れた人間が作る薬は、時に危険だ。
「ヴェルネ様、次の抽出が終わります」
ビアンカの声で、わたしは主炉へ向かった。抽出液の色は淡い。灰塩で荒れた喉には、強い薬より優しい薬が必要だ。即効性を求めて濃くしすぎると、逆に咳が増える。濾過器を通し、瓶へ分ける。単純な作業を、丁寧に繰り返す。
そこへ、セドリック様が来た。外套に雪がついている。南区を回ってきたのだろう。顔には疲れがあるが、声は変わらなかった。
「状況は」
「薬は今夜分なら足ります。明日の朝には銀葉草が不足します。王都産は使いたくありません。灰塩の流通経路が不明です」
「領内の薬草畑を押さえる。山側の村からも運ばせる」
「乾燥が間に合わないかもしれません」
「生葉で使える処方は」
「あります。ただし保存できません。作ったらすぐ配る必要があります」
「なら、配る人員を増やす」
彼の判断は速い。その速さに支えられながら、わたしは次の処方へ進んだ。夜半、工房の入口で小さな騒ぎが起きた。南区の母親が、子どもを抱いてやってきたのだ。隔離線を越えたわけではない。薬の配布所で順番を待てず、城の兵に連れられてきた。
「息が、苦しそうで」
母親は泣きながら言った。子どもの唇は乾き、喉の奥に灰色の斑点がある。熱は高い。灰塩だけではなく、灰冠熱が入っている可能性が高い。工房で診るべきではない。でも、治療室へ運ぶ時間も惜しい。
「ここで応急処置します。マリウスさんを呼んで」
ビアンカが走った。わたしは子ども用の薬を調整し、喉を湿らせる。強い解熱薬を使いたい気持ちを抑えた。熱を無理に下げれば、体が病に負ける。今は呼吸を助け、脱水を防ぐ。母親が、何度も謝った。
「すみません、すみません」
「謝らないでください。早く連れてきてくれて助かりました」
子どもの呼吸が少しずつ落ち着く。その時、工房の隅で休んでいたノラが起き上がり、水を持ってきた。
「濾過したやつです」
「ありがとう」
「私、休んだので働けます」
「少しだけ」
「少しだけ!」
その返事に、母親が泣きながら笑った。夜明け前、患者の容態は安定した。マリウスさんが治療室へ運び、母親も付き添った。工房に残ったわたしたちは、しばらく誰も動けなかった。炉の火が、静かに揺れている。
セドリック様が入口に立ったまま言った。
「君も休め」
「あと一鍋だけ」
「その言葉は信用しない」
彼は近づき、わたしの手元を見た。指が震えていた。自分では気づかなかった。
「リリアナ」
名を呼ばれた。
「工房を閉じろとは言わない。だが、君が休む時間も工房の一部にしろ」
その言葉に、反論が消えた。工房を閉じない夜でも、人は休まなければならない。わたしはビアンカへ引き継ぎを書き、椅子に座った。眠るつもりはなかった。けれど、炉の音を聞いているうちに、いつの間にか目を閉じていた。




