表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫の功績にされていた天才錬金術師ですが、妻を辞めたのでポーションも魔導具も作りません  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
53/53

第53話 わたしの名で作るもの

ノラが副工房主補佐として、初めて大きな判断をした。雨の日、喉薬の注文が急に増えた。診療所からも追加が入り、港連絡所からも保存薬の確認が来る。わたしは王都への意見書を書いていて、作業台から離れられなかった。


 ノラは予約表を見つめ、赤い停止札を手に取った。


「喉薬の新規受付を、今日の午後から明日の昼まで止めます」


 工房が静かになった。止めるという判断は、いつでも重い。ノラは続けた。


「今受けている分の検品を優先します。追加は診療所の在庫へ案内。重症者は医師へ。工房で無理に受けると、焦げや見落としが出ます」


 理由がある。代替先がある。記録先がある。


「判断を支持します」


 わたしが言うと、ノラは一瞬だけ目を閉じた。怖かったのだろう。それでも、止めた。午後、何人かは不満を言った。


「前は受けてくれた」


 ノラは逃げずに答えた。


「今日は安全に検品できる数を超えます。焦げた薬や確認不足の薬を渡すより、明日確実に渡します」


 焦げた薬。彼女自身の失敗が、今の説明の根拠になっている。不満を言った客も、最後には診療所の案内札を受け取った。夜、すべての検品が終わった時、ノラは机に突っ伏した。


「胃が痛いです」


「副工房主補佐の胃薬を用意しましょうか」


「本気でください」


 工房に笑いが起きた。ノラの初判断は、派手ではない。でも、工房を守る判断だった。


 ◇


秋の風が入る頃、工房の看板を手入れすることになった。一年分の雨と日差しで、文字の縁が少し薄くなっている。星濾工房。工房主リリアナ・ヴェルネ・アーヴェン。その下に、新しい小さな札を加えた。副工房主補佐ノラ。港連絡所責任者ラナ。


 札係テオ。巡回地図係ヨルク。業務管理ビアンカ。肩書きは、まだ完全ではない。変わるかもしれない。けれど、今の仕事を見える場所に置きたかった。ノラは看板を見上げて、少し口を開けていた。


「外に出すんですか」


「責任のある仕事ですから」


「恥ずかしいです」


「わたしも最初はそうでした」


 テオは自分の名前を見て、耳まで赤くなった。ヨルクは字の曲がりを気にしている。ラナは港の人に見られることを想像して、深呼吸していた。ビアンカだけは落ち着いている。


「これで、工房主だけを呼べばすべて決まる、とは言いにくくなりますね」


「それが目的です」


 誰か一人の名に、すべてを集めない。わたしが名を奪われた過去から始まった工房は、今、名を分けて掲げる場所になった。新しい看板を掛け終えると、正面の呼び鈴が鳴った。最初の客が来たのだ。わたしは皆を見た。


「開けましょう」


 扉の向こうには、また仕事がある。けれど今は、その扉を一人で開けなくていい。


 ◇


星濾工房の朝は、呼び鈴の音から始まることが多い。古い鍵の星が揺れ、扉が開く。最初に来るのは、東門診療所の連絡係。次に、港連絡所へ運ぶ薬を受け取りに来る商人。さらに、見習い希望の子どもが母親と一緒に緊張した顔で立っている。


 工房は忙しい。けれど、昔の夜明けのような息苦しさはない。ノラが炉の温度を読み、ラナが港用の瓶を湿気袋に入れ、ヨルクが馬車の車輪を確認する。テオは新しい見習いに赤い停止札の場所を教えている。


「ここにあります。先生が作業していても出していいです」


 その声が聞こえて、わたしは少し笑った。ビアンカは予約表を読み上げる。


「午前は喉薬、午後は港連絡所、夕方に基金監査。工房主の休憩は昼二刻から」


「休憩も読み上げるのですか」


「読み上げます」


 反論はしない。休憩も予定の一部だ。セドリック様は領主館へ行く前に、工房へ寄った。指輪の保管箱を見て、わたしが作業用に外していることを確認し、何も言わずに微笑む。


「今日も忙しいな」


「はい。でも、止まる場所があります」


「ならいい」


 彼は短くそう言い、呼び鈴を鳴らして出て行った。扉が閉まる。工房の音が戻る。薬草を刻む音。瓶を置く音。紙に署名する音。誰かが迷って、相談記録を開く音。その一つ一つが、わたしの今の暮らしだった。


 ローウェル家を出た日、わたしは夫のためには作らないと決めた。それは、作ることを嫌いになったからではない。自分の名を消されるために作るのを、やめただけだ。今、作業台の上には、今日使う薬草が並んでいる。白い工房着の袖口には、青い星。


 わたしは星の計量匙を取り、最初の分量を量った。今日も、自分の名で作る。


 ◇


昼の休憩前、工房の扉がまた開いた。呼び鈴が鳴る。入ってきたのは、東門の革職人だった。手には、以前より使い込まれた薬瓶がある。


「また苦情ですか」


 わたしが聞くと、彼は笑った。


「違う。報告だ」


 差し出された瓶には、古い赤札が貼ってあった。


『夜に飲まない』


 字は少し擦れている。


「この札のおかげで、うちの見習いが飲み間違えずに済んだ。礼を言いに来た」


「それは、最初の苦情のおかげです」


「苦情が役に立つなら、言った甲斐がある」


 彼は照れたように頭を掻き、帰っていった。扉が閉まると、鈴が小さく鳴った。工房の中では、ノラが見習いに火加減を教えている。


「焦げの匂いは、軽い時ほど言います。忙しそうでも言います」


 テオは新しい札を書いている。ラナは港用の湿気記録に署名し、ヨルクは移動工房馬車の巡回地図を広げている。ビアンカは休憩時間を守るため、すでに茶を用意していた。どれも、わたし一人の功績ではない。だからこそ、誇らしい。


 セドリック様から、昼の伝言が届いた。


『会議が長引く。休憩を飛ばさないように』


 短い札に、思わず笑ってしまった。夫からの伝言が、仕事を急がせるものではなく、休むよう促すものになっている。昔のわたしが見たら、信じないだろう。わたしは作業台の端に、今日の完成品を並べた。


 喉薬、補水薬、凍傷軟膏、火傷用の応急箱、港用の保存札、星水濾過器の交換布。ポーションも、魔導具もある。ただし、もう夫の功績にするためのものではない。誰かの見栄のためでも、発表台の拍手のためでもない。薬を必要とする人のため。


 使う人の手に届くため。作った人の名と責任が消えないため。わたしは休憩前の記録に署名した。リリアナ・ヴェルネ・アーヴェン。星濾工房主。その下に、今日関わった工房員の名が並ぶ。ノラ。テオ。ラナ。ヨルク。ビアンカ。


 診療所の名、港連絡所の名、基金監査の印。たくさんの名が、同じ紙の上にある。わたしはその紙を乾かし、記録棚へ入れた。午後にも仕事はある。明日も、別の相談が来るだろう。失敗も、苦情も、迷いもあるはずだ。それでも、もう怖くない。


 止まる札があり、相談する帳面があり、名を書く手がある。工房の窓から、夏の光が入る。白い袖口の星が、少しだけ光った。妻を辞めた日、わたしは終わりを選んだのだと思っていた。


 けれど本当は、自分の名で作り始めるための、最初の一日だったのだ。今日も、星濾工房は開いている。

ここまでお読みいただきありがとうございます。星濾工房とリリアナの物語、完結です。少しでも楽しんでいただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ