第53話 わたしの名で作るもの
ノラが副工房主補佐として、初めて大きな判断をした。雨の日、喉薬の注文が急に増えた。診療所からも追加が入り、港連絡所からも保存薬の確認が来る。わたしは王都への意見書を書いていて、作業台から離れられなかった。
ノラは予約表を見つめ、赤い停止札を手に取った。
「喉薬の新規受付を、今日の午後から明日の昼まで止めます」
工房が静かになった。止めるという判断は、いつでも重い。ノラは続けた。
「今受けている分の検品を優先します。追加は診療所の在庫へ案内。重症者は医師へ。工房で無理に受けると、焦げや見落としが出ます」
理由がある。代替先がある。記録先がある。
「判断を支持します」
わたしが言うと、ノラは一瞬だけ目を閉じた。怖かったのだろう。それでも、止めた。午後、何人かは不満を言った。
「前は受けてくれた」
ノラは逃げずに答えた。
「今日は安全に検品できる数を超えます。焦げた薬や確認不足の薬を渡すより、明日確実に渡します」
焦げた薬。彼女自身の失敗が、今の説明の根拠になっている。不満を言った客も、最後には診療所の案内札を受け取った。夜、すべての検品が終わった時、ノラは机に突っ伏した。
「胃が痛いです」
「副工房主補佐の胃薬を用意しましょうか」
「本気でください」
工房に笑いが起きた。ノラの初判断は、派手ではない。でも、工房を守る判断だった。
◇
秋の風が入る頃、工房の看板を手入れすることになった。一年分の雨と日差しで、文字の縁が少し薄くなっている。星濾工房。工房主リリアナ・ヴェルネ・アーヴェン。その下に、新しい小さな札を加えた。副工房主補佐ノラ。港連絡所責任者ラナ。
札係テオ。巡回地図係ヨルク。業務管理ビアンカ。肩書きは、まだ完全ではない。変わるかもしれない。けれど、今の仕事を見える場所に置きたかった。ノラは看板を見上げて、少し口を開けていた。
「外に出すんですか」
「責任のある仕事ですから」
「恥ずかしいです」
「わたしも最初はそうでした」
テオは自分の名前を見て、耳まで赤くなった。ヨルクは字の曲がりを気にしている。ラナは港の人に見られることを想像して、深呼吸していた。ビアンカだけは落ち着いている。
「これで、工房主だけを呼べばすべて決まる、とは言いにくくなりますね」
「それが目的です」
誰か一人の名に、すべてを集めない。わたしが名を奪われた過去から始まった工房は、今、名を分けて掲げる場所になった。新しい看板を掛け終えると、正面の呼び鈴が鳴った。最初の客が来たのだ。わたしは皆を見た。
「開けましょう」
扉の向こうには、また仕事がある。けれど今は、その扉を一人で開けなくていい。
◇
星濾工房の朝は、呼び鈴の音から始まることが多い。古い鍵の星が揺れ、扉が開く。最初に来るのは、東門診療所の連絡係。次に、港連絡所へ運ぶ薬を受け取りに来る商人。さらに、見習い希望の子どもが母親と一緒に緊張した顔で立っている。
工房は忙しい。けれど、昔の夜明けのような息苦しさはない。ノラが炉の温度を読み、ラナが港用の瓶を湿気袋に入れ、ヨルクが馬車の車輪を確認する。テオは新しい見習いに赤い停止札の場所を教えている。
「ここにあります。先生が作業していても出していいです」
その声が聞こえて、わたしは少し笑った。ビアンカは予約表を読み上げる。
「午前は喉薬、午後は港連絡所、夕方に基金監査。工房主の休憩は昼二刻から」
「休憩も読み上げるのですか」
「読み上げます」
反論はしない。休憩も予定の一部だ。セドリック様は領主館へ行く前に、工房へ寄った。指輪の保管箱を見て、わたしが作業用に外していることを確認し、何も言わずに微笑む。
「今日も忙しいな」
「はい。でも、止まる場所があります」
「ならいい」
彼は短くそう言い、呼び鈴を鳴らして出て行った。扉が閉まる。工房の音が戻る。薬草を刻む音。瓶を置く音。紙に署名する音。誰かが迷って、相談記録を開く音。その一つ一つが、わたしの今の暮らしだった。
ローウェル家を出た日、わたしは夫のためには作らないと決めた。それは、作ることを嫌いになったからではない。自分の名を消されるために作るのを、やめただけだ。今、作業台の上には、今日使う薬草が並んでいる。白い工房着の袖口には、青い星。
わたしは星の計量匙を取り、最初の分量を量った。今日も、自分の名で作る。
◇
昼の休憩前、工房の扉がまた開いた。呼び鈴が鳴る。入ってきたのは、東門の革職人だった。手には、以前より使い込まれた薬瓶がある。
「また苦情ですか」
わたしが聞くと、彼は笑った。
「違う。報告だ」
差し出された瓶には、古い赤札が貼ってあった。
『夜に飲まない』
字は少し擦れている。
「この札のおかげで、うちの見習いが飲み間違えずに済んだ。礼を言いに来た」
「それは、最初の苦情のおかげです」
「苦情が役に立つなら、言った甲斐がある」
彼は照れたように頭を掻き、帰っていった。扉が閉まると、鈴が小さく鳴った。工房の中では、ノラが見習いに火加減を教えている。
「焦げの匂いは、軽い時ほど言います。忙しそうでも言います」
テオは新しい札を書いている。ラナは港用の湿気記録に署名し、ヨルクは移動工房馬車の巡回地図を広げている。ビアンカは休憩時間を守るため、すでに茶を用意していた。どれも、わたし一人の功績ではない。だからこそ、誇らしい。
セドリック様から、昼の伝言が届いた。
『会議が長引く。休憩を飛ばさないように』
短い札に、思わず笑ってしまった。夫からの伝言が、仕事を急がせるものではなく、休むよう促すものになっている。昔のわたしが見たら、信じないだろう。わたしは作業台の端に、今日の完成品を並べた。
喉薬、補水薬、凍傷軟膏、火傷用の応急箱、港用の保存札、星水濾過器の交換布。ポーションも、魔導具もある。ただし、もう夫の功績にするためのものではない。誰かの見栄のためでも、発表台の拍手のためでもない。薬を必要とする人のため。
使う人の手に届くため。作った人の名と責任が消えないため。わたしは休憩前の記録に署名した。リリアナ・ヴェルネ・アーヴェン。星濾工房主。その下に、今日関わった工房員の名が並ぶ。ノラ。テオ。ラナ。ヨルク。ビアンカ。
診療所の名、港連絡所の名、基金監査の印。たくさんの名が、同じ紙の上にある。わたしはその紙を乾かし、記録棚へ入れた。午後にも仕事はある。明日も、別の相談が来るだろう。失敗も、苦情も、迷いもあるはずだ。それでも、もう怖くない。
止まる札があり、相談する帳面があり、名を書く手がある。工房の窓から、夏の光が入る。白い袖口の星が、少しだけ光った。妻を辞めた日、わたしは終わりを選んだのだと思っていた。
けれど本当は、自分の名で作り始めるための、最初の一日だったのだ。今日も、星濾工房は開いている。
ここまでお読みいただきありがとうございます。星濾工房とリリアナの物語、完結です。少しでも楽しんでいただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。




