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夫の功績にされていた天才錬金術師ですが、妻を辞めたのでポーションも魔導具も作りません  作者: 小竹X


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第51話 工房を閉める午後

契約更新の翌週、星濾工房は半日だけ閉まった。理由は、工房員全員の休息と勉強会である。掲示には大きく書いた。


『午後休業。緊急薬は東門診療所へ。明日は通常通り開きます』


 以前なら、休業の札を見るだけで胸が落ち着かなかった。今も少しそわそわする。けれど、工房員たちが当たり前のように片付け、炉を落とし、窓を閉めていく姿を見ると、これも仕事の一部なのだと思える。勉強会の場所は、領主館の庭だった。


 薬草の見分けではなく、体の休め方を学ぶ会である。診療所の医師が講師として来た。


「疲労は、気合いで消えません」


 最初の一言で、ノラがわたしを見た。


「なぜ見るのですか」


「見たほうがいいと思って」


 皆が笑う。医師は睡眠、食事、手の荒れ、目の疲れについて話した。錬金術師の手は、道具である前に体の一部だ。痛みを無視すれば、調合の精度も落ちる。ラナは自分の指の傷について質問した。ヨルクは冬の巡回後の足の冷えを相談した。


 ノラは、緊張すると息を止める癖を指摘された。わたしは、休業日に工房のことを考え続ける癖を指摘された。勉強会の最後に、医師が言った。


「人を守る仕事をする人は、自分を守る手順を持ってください」


 それは、わたしが何度も人に言ってきたことと同じだった。自分に向けると、少し難しい。帰り道、セドリック様が言った。


「工房を閉める午後も、悪いものではないだろう」


 わたしは空を見た。夏の雲がゆっくり流れている。


「はい。必要なものです」


 そう言えるまで、一年以上かかった。工房を閉める午後は、工房を続けるためにある。


 ◇


工房の棚が、また足りなくなった。薬棚ではない。記録棚だ。港連絡所、移動工房馬車、基金、奨学箱、偽造事件、見習い教育、休業訓練。紙は増え続けている。テオが棚の前で言った。


「先生、紙で町を埋める日が近いです」


「埋めません」


「でも、棚は埋まりました」


 事実だった。新しい棚を買うだけなら簡単だ。だが、棚が増えると、探しにくくなる。探せない記録は、残していないのと同じだ。ビアンカと一緒に、記録の分類を見直した。薬の処方。事故と苦情。制度と契約。教育。地域連絡。過去の整理。


 最後の分類で、わたしは少し手を止めた。ローウェル家の完済証明、離縁状の写し、エドガーの再教育記録。もう日々取り出すものではない。けれど、捨てない。過去の棚は、奥へ移すことにした。隠すのではなく、必要な時だけ取り出せる場所へ。


 代わりに、手前の棚には見習い教育と地域連絡を置く。これから使うものを、手の届く場所へ。ノラが棚替えを手伝いながら言った。


「先生、過去の紙を奥に置けるようになったんですね」


「そうですね」


「捨てないんですね」


「捨てると、なかったことにされる気がします。奥に置くくらいが今は合っています」


 棚の位置は、心の位置にも似ている。全部を表に出す必要はない。でも、鍵をかけて忘れる必要もない。新しい棚の一段目に、見習い教育記録を入れた。これからの手が、一番取り出しやすい場所に来た。


 ◇


ヨルクは、冬の巡回地図を作っていた。炭焼き村の出身だから、山道の癖をよく知っている。雪が積もる場所、風が抜ける尾根、春にぬかるむ谷道。領主館の地図には載っていない小さな危険を、彼は一つずつ書き込んだ。


 最初の地図は、少し見づらかった。線が多く、字が重なっている。テオが隣で言った。


「大事な道がどれか分かりません」


「全部大事なんだ」


「全部赤くすると、全部見えなくなります」


 札係らしい指摘だった。ヨルクはむっとしたが、すぐに考え直した。危険度で色を分ける。冬に通れない道は黒。注意して通る道は赤。移動工房馬車が止まれる場所は青。村人に聞くべき場所は緑。地図は少しずつ読みやすくなった。


 わたしは見ていて思った。この工房には、薬草を煮る以外の技術が本当に増えた。匂いを知るラナ。札を直すテオ。山道を読むヨルク。失敗を教えるノラ。記録を守るビアンカ。どれも、錬金術の外側に見える。けれど、人を守る仕事の内側にある。


 完成した冬地図は、移動工房馬車の壁に貼った。ヨルクは少し照れた顔で言う。


「僕の地図で、誰かが早く着けますか」


「はい」


「薬じゃないのに」


「道も薬を運ぶ道具です」


 彼はその言葉を、地図の隅に小さく書いた。冬はまだ遠い。けれど、冬に備える仕事は、夏から始まっている。


 ◇


港連絡所から、月次報告が届いた。報告者はラナとミリヤの連名だった。湿気で劣化した袋の数、小分け保存薬の販売数、偽袋の追加発見、腹痛相談の減少、港診療所への紹介件数。数字の横に、短い観察が添えられている。


『漁師は番号確認に慣れてきたが、急ぎの朝は省略しやすい』


『酒場で保存薬を分け売りする者がいる。説明札が外れやすい』


『青い糸は濡れても分かるが、油がつくと滑る』


 現場の言葉だった。わたしは報告書に感心した。ただ数字を並べるのではなく、次に直す場所が見えている。ノラも読んで頷いた。


「ラナ、すごいですね」


「あなたの教育の成果でもあります」


「私ですか」


「停止札と申告の考え方を教えたでしょう」


 ノラは少し照れた。報告書をもとに、次の改善を決めた。酒場で分け売りされる時用の小札を作る。油に強い別の糸を試す。朝市の入口に番号確認係を置く。ラナの報告書には、港の暮らしがそのまま入っていた。


 工房の机で考えるだけでは分からないことばかりだ。返信には、修正案と感謝を書いた。


『現場の観察が、次の安全を作ります。数字だけでなく、匂い、手触り、急ぐ時間帯を記録し続けてください』


 手紙を閉じる時、わたしは少し笑った。かつて、わたしの記録は夫の発表に吸い上げられた。今は、誰かの記録が誰かの名のまま工房へ戻ってくる。その循環が、何より嬉しかった。

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