第50話 休業日の練習
休業日の練習をすることになった。練習、という言葉に皆が首を傾げたが、ビアンカは真顔だった。
「休むことも、ぶっつけ本番では失敗します」
確かに、その通りだった。工房主が休む日。副工房主補佐が判断する日。港連絡所は副責任者が開ける日。移動工房馬車は運行しない日。それぞれの連絡先を確認し、緊急時の手順を読み合わせる。わたしは午前だけ工房に入らないことになった。
「午前だけですか」
セドリック様が言う。
「練習ですから」
「一日休む練習へ進むことを期待している」
厳しい。休業練習の日、わたしは領主館の庭で過ごした。何度も工房のほうを見た。呼び鈴が聞こえた気がして、立ち上がりかける。セドリック様が本から目を上げた。
「聞こえていない」
「まだ何も言っていません」
「顔が言っている」
座り直す。工房では、ノラが喉薬の注文を一件断った。理由は、当日中に安全な検品ができないため。代わりに診療所の在庫を案内した。午後、報告を聞いたわたしは頷いた。
「正しい判断です」
ノラはほっとした顔をした。
「断るの、怖かったです」
「怖くても、断れました」
港連絡所でも、ミリヤが偽袋らしきものを持ち込まれ、受け渡しを止めて本工房へ連絡していた。休業日の練習は、成功だった。わたしが少し落ち着かなかったこと以外は。ビアンカは記録に書いた。
『工房主の休息訓練、継続必要』
皆に笑われた。少し恥ずかしい。だが、これも記録だ。休むことも、工房の仕事として練習していく。
◇
王都講習の裏廊下で出会った少女から、手紙が届いた。彼女と婚約者の共同研究が、王都錬金術局の小規模発表会で正式に受理されたという。発表者欄には、二人の名が並んでいる。
さらに、共同記録の書式が評価され、見習い向け資料として使われることになったらしい。手紙の最後には、小さな文字でこう書かれていた。
『発表台に立つ前、手が震えました。でも、自分の名が呼ばれました。震えたまま返事をしました』
わたしはその一文を何度も読んだ。震えたまま返事をする。それは、とても大切なことだ。ノラに手紙を見せると、彼女は嬉しそうに笑った。
「名前を書いてみます、の人ですね」
「はい」
「書けたんですね」
「書けました」
テオは発表者欄を見て言った。
「署名欄、見やすいです」
彼の評価基準はぶれない。返事には、祝いの言葉と、次の注意を書いた。
『名が載った後こそ、記録を続けてください。最初の成功は、人を急がせます。急ぎたくなったら、相談記録を開いてください』
祝いの手紙に注意を書くのは硬いかもしれない。けれど、彼女なら分かると思った。成功もまた、危険を連れてくる。名が呼ばれた嬉しさで、次の手順を省略しないように。手紙を出したあと、わたしは工房の棚にある最初の質問箱の紙を見た。
『名前を書いてみます』
その短い紙の先に、今日の合格通知がある。星濾工房から出た言葉が、王都の発表台で別の人の名を支えた。それは、静かな喜びだった。
◇
母から届く蜂蜜は、いつの間にか工房の定番になっていた。もちろん、十歳のわたしのように三杯も入れることはない。少量で喉をやわらげ、子どもが飲みやすくなる程度に使う。ある日、母が新しい提案を持ってきた。
「蜂蜜を使った子ども用の喉薬を、正式な処方にできないかしら」
少し意外だった。母は薬を作る人ではない。けれど、家で病人に飲ませる味を知っている。わたしは試験表を出した。
「甘さだけでは処方にできません。年齢、体質、保存期間、蜂蜜の品質を確認します」
「分かっているわ。だから、聞きに来たの」
その言葉に、少し胸が温かくなった。昔の母なら、良い蜂蜜だから使いなさいと言ったかもしれない。今は、確認しに来ている。試験は慎重に行った。
蜂蜜の量を変え、雪豆草との相性を見て、保存中の変化を確認する。幼すぎる子には使わない注意も必要だ。母は、試飲の記録を手伝った。
「これは甘すぎるわね。薬ではなく菓子になる」
「母にそう言われるとは」
「昔のあなたにも言いたかったわ」
二人で少し笑った。完成した処方は、母の名を含めて記録した。
『家庭使用意見協力、エリシア・ヴェルネ』
母はその欄を見て、何度も瞬きをした。
「私の名前も?」
「協力者ですから」
「薬は作っていないわ」
「飲む人の暮らしを知っていました」
母は静かに頷いた。親子の傷は、完全に消えたわけではない。それでも、同じ処方箋の上に名を並べる日が来た。蜂蜜の香りは、昔より少しやわらかく感じた。
◇
婚姻契約の更新日が近づいていた。わたしたちは、年に一度、契約内容を読み直すと決めている。夫婦の約束も、工房の規定と同じで、暮らしに合わなくなったら直す必要がある。今年、セドリック様は新しい条件を一つ出した。
「君が工房で徹夜しそうになった場合、工房員が領主館へ連絡してよい」
わたしは書類を見た。
「徹夜しそう、の基準が曖昧です」
「二刻を過ぎても炉を使っている場合」
「緊急時は」
「診療所と領主館の緊急印がある場合は例外」
かなり具体的だった。おそらく、ビアンカと相談したのだろう。
「わたしだけ条件が増えています」
「俺にもある」
彼は別の紙を出した。
『領主が発熱を隠した場合、工房主は執務停止を命じることができる』
あの風邪の件だ。思わず笑ってしまった。
「公平ですね」
「公平にした」
契約更新の場には、堅苦しさより、生活の匂いがあった。徹夜しない。熱を隠さない。相談を省略しない。相手の仕事を所有しない。どれも派手な誓いではない。でも、日々を守るには、こういう条件のほうが役に立つ。
署名の前に、セドリック様が言った。
「去年より、君の工房は大きくなった」
「はい」
「だから、君自身を守る条件も増やす」
「あなた自身を守る条件も増やします」
「望むところだ」
二人で署名する。夫婦の契約書は、今年も少し厚くなった。それは窮屈さではなく、暮らしを続けるための余白だった。




