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夫の功績にされていた天才錬金術師ですが、妻を辞めたのでポーションも魔導具も作りません  作者: 小竹X


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第47話 港連絡所の初日

港連絡所の初日は、潮の匂いで始まった。倉庫の一角を仕切った小さな場所には、薬棚ではなく受け渡し台と記録机だけを置いた。湿気が強いので、薬は必要な分だけ本工房から運ぶ。余ったものはその日のうちに戻す。


 責任者のラナは、白い工房着の袖を何度も整えていた。


「緊張していますか」


「しています」


「何が一番怖いですか」


「港の人たちは気が短いので、待てと言ったら怒るかもしれません」


 港で育った彼女らしい不安だった。わたしは受け渡し台に赤い停止札を置いた。


「怒られても、止める時は止めます。急がせる人ほど、記録を飛ばしやすい」


 最初の客は、船具職人だった。手の擦り傷が化膿しかけている。海水で洗えば大丈夫だと思っていたらしい。ラナは手順通りに聞いた。


「傷はいつからですか。熱はありますか。前に同じ薬でかぶれたことは」


 職人は面倒そうに答えたが、ラナは急がなかった。薬を渡す前に、彼女は港用の説明札を読み上げる。


「海水ではなく、清潔な水で洗ってください。濡れた包帯は替えます。痛みが広がったら診療所へ」


 職人は札を見て、少し笑った。


「港の言葉で書いてあるな」


 ラナが顔を上げた。


「分かりやすいほうがいいので」


「その通りだ」


 初日の午前は、擦り傷、船酔い、保存薬の相談で終わった。大きな事故はない。だが、港には本工房とは違う危険がある。湿気、塩、揺れる船、酒場の噂。薬の使い方も暮らしに合わせて変える必要があった。


 夕方、連絡所を閉める時、ラナは記録机を撫でた。


「ここでなら、私の匂いの記憶も役に立ちますね」


「ええ。港のことは、あなたのほうが詳しい」


 彼女は少し笑った。星濾工房の仕事は、また一つ場所を増やした。ただし、増えた場所には、増えた責任もある。その日の記録は、いつもより丁寧に本工房へ持ち帰った。


 ◇


港連絡所で一番多かった相談は、魚の保存薬だった。腐敗を遅らせる薬粉は、港の商人にとって重要だ。けれど、強すぎれば食べる人の腹を壊す。弱すぎれば、船倉で魚が腐る。ラナは、魚の匂いを嗅ぎ分けることができた。


「これは薬粉が強すぎます。魚の匂いが消えすぎている」


 彼女がそう言うと、商人は驚いた。


「匂いが消えるならいいんじゃないのか」


「消えすぎると、腐り始めた時にも分かりません」


 薬は、問題を見えなくするためのものではない。保存薬も同じだ。わたしたちは、港用の新しい基準を作ることにした。


 保存薬の量、魚の種類、船倉の温度、保管日数、食べる前の確認方法。港の人には当たり前でも、王都の書式には載っていないことが多い。ラナは実家の魚運びたちから話を聞き、ビアンカは商人組合の帳面を確認した。ノラは本工房で試験薬を作る。


 わたしは、保存薬の香りが魚の危険な変化を隠さないよう調整した。完成した試作品は、華やかな効能をうたえない。


『腐敗を完全に防ぐ薬』ではない。


『腐敗を遅らせ、変化を見逃さないための薬』だ。


 商人の一人は不満そうだった。


「完全に防げると言ったほうが売れる」


「売れても、腹痛を出せば信用を失います」


「少し大げさに書くくらいは」


「大げさな説明は、薬の中にない成分を売ることです」


 言葉は商品になる。だからこそ、嘘を混ぜてはいけない。港用の札には、ラナが大きく書いた。


『匂いが消えすぎた魚は、食べない』


 その下に、テオの絵を添える。魚の絵と、鼻を近づける人。赤い斜線。港の人々は笑ったが、読んだ。笑っても読まれる札は、良い札だ。保存薬の基準は、港連絡所の最初の大きな仕事になった。


 ◇


問題が起きたのは、保存薬の基準が広まり始めた頃だった。港の市場に、星印のついた薬粉が出回った。袋には『星濾式保存薬』と書かれている。けれど、星濾工房が出したものではない。ラナが最初に気づいた。


「匂いが違います」


 彼女は市場で買った袋を連絡所へ持ち帰った。見た目はよく似ている。星の印も、少し崩れているが遠目には分かりにくい。中の粉は、保存薬の香りが強すぎた。わたしは少量を試験皿に移し、反応液を垂らした。色が濁る。


「灰塩粉が混じっています」


 ノラの顔が険しくなった。灰冠熱の記録を思い出すのだろう。この量ならすぐ重症にはならないかもしれない。だが、食品に使い続ければ喉や腹を傷める危険がある。すぐに市場へ回収札を出した。


『星濾工房は、この袋を製造していません。使用を止め、港連絡所へ持参してください』


 商人組合は慌てた。偽物が出るほど名前が広がった、と喜ぶ余裕はない。名は、人を守るために残すものだ。偽られれば、人を傷つける刃にもなる。港では、すでに何人かが軽い腹痛を訴えていた。ラナは自分を責めた。


「私がもっと早く見つけていれば」


「最初に見つけたのはあなたです」


「でも、港の人なら匂いで分かったはずなのに」


「全部を一人で嗅ぎ分けることはできません」


 わたしは偽袋を記録机に置いた。


「次に必要なのは、匂いだけに頼らない見分け方です」


 星印を守る。けれど、星印を囲い込まない。難しい問題が、港から持ち込まれた。


 ◇


偽の星印は、巧妙ではなかった。近くで見れば、線が歪んでいる。製造番号もない。責任者名も空欄だ。それでも市場で売れた。理由は簡単だった。買う人は、忙しい。袋を近くで見ない。星の形だけで信用する。安ければ手に取る。


 だから、正しいものを作るだけでは足りない。見分け方を渡さなければならない。工房では、急いで新しい識別札を作った。一、星印の横に製造番号がある。二、作業者名と検品者名がある。三、袋の口にざらついた青い糸が結ばれている。


 四、説明札に相談先がある。テオが絵にした。ラナは港の言葉で短く言い換えた。


『星だけ見るな。番号を見ろ』


 強い言い方だが、港ではそのほうが届く。ノラは偽袋の粉を廃棄箱へ移しながら言った。


「名前を残すのって、偽名も出るんですね」


「はい。だから、名前の周りの手順も必要です」


 セドリック様は港の警備と商人組合に通達を出した。ただし、すぐに犯人を捕まえて終わりにはしない。すでに売れたものを回収し、使った人の症状を確認し、再発防止を作る必要がある。港連絡所には、偽袋を持った人が次々に来た。


 怒っている人、不安な人、安さにつられたことを恥じる人。わたしは同じ説明を繰り返した。


「安いものを買ったことだけが悪いのではありません。見分ける情報が足りなかったことも原因です」


 その言葉で、少し顔を上げる人がいた。責めるだけでは、次の人が袋を隠す。持ってきてもらうほうが、ずっと大切だ。港の掲示板には、星印の見分け方が大きく貼られた。星濾工房の名は、看板だけで守れない。見分け方を町に渡して、初めて守れる。

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