第45話 誰か一人の英雄ではなく
誤飲事故の処理が終わった翌日、町では少し大げさな噂が流れていた。星濾工房主が夜中に駆けつけ、子どもを救った。間違いではない。けれど、それだけでは正しくない。診療所の受付が走った。医師が処置した。ノラが聞き取りをした。
テオが札を直した。ラナとヨルクが手触りの案を出した。セドリック様が護衛と連絡を整えた。母親が、泣きながらも正直に状況を話した。誰か一人の英雄ではなかった。わたしは町の掲示板に、事故報告の要約を貼った。個人名は伏せる。
対策は詳しく書く。見出しは、ビアンカが決めた。
『誤飲を防ぐために、町全体で変えること』
市場の人、教会の人、子どもを連れた母親たちが足を止める。ある老人が言った。
「誰が悪いかは書かないのか」
「再発を防ぐための掲示です」
「悪い者を決めたほうが分かりやすい」
「分かりやすいだけでは、事故は減りません」
老人は黙って掲示を読み直した。午後、工房に小さな布袋が届いた。誤飲した子どもの母親からだった。中には、粗い赤布が何枚も入っている。
『危ない瓶に巻いてください。字は苦手ですが、布なら切れます』
わたしはその布を、工房の改善箱に入れた。被害に近い人が、次の予防に参加する。それは、罰よりもずっと強い。夜、セドリック様が掲示を読んだ。
「君の名を大きく書かなかったんだな」
「一人の名にすると、他の手が消えます」
「昔とは逆だな」
「はい」
昔は、わたしの手が消された。今は、誰かの手を消したくない。星濾工房が守る名前は、わたし一人のものではない。そのことを、町の掲示板に残しておきたかった。
◇
ローウェル家からの返還金が、最後の一回を迎えた。管財人の封筒には、完済証明と、これで財産整理が終了するという通知が入っていた。数字はもう大きくない。
最初の返還で基金を作り、安全設備を整え、濾過器の試作費にも使った。残りは少しずつ、工房の帳面に吸い込まれていった。最後の金額を見ても、怒りは以前ほど鋭くなかった。代わりに、長い作業が終わった時の疲れに近いものがあった。
ビアンカが証明書を確認する。
「これで、金銭上の未処理は終わりです」
「はい」
「どう使いますか」
わたしは少し考えた。自分のために宝石を買うこともできる。工房の棚を増やすこともできる。けれど、最後の返還金には、別の使い方をしたかった。
「見習い用の奨学箱にします」
「奨学箱」
「家に余裕がなくても、字を学び、道具を買い、休む日を持てるように。工房で働くための最初の費用に使います」
ローウェル家で奪われた報酬が、次の誰かの名前を残すために使われる。それが、いちばん合っている気がした。ノラが聞く。
「私も使えますか」
「あなたはもう工房員ですが、学ぶ費用には使えます」
「じゃあ、字をもっと綺麗にしたいです」
「良い使い方です」
テオは算術を学びたいと言った。ラナは薬草名の字を覚えたい。ヨルクは冬の巡回地図を読めるようになりたい。最後の返還金は、すぐに行き先が決まった。完済証明は、資料棚の奥に入れた。目立つ場所ではない。けれど、捨てない。
過去の不正が終わったことを示す紙として、保管する。夕方、セドリック様に報告すると、彼は静かに頷いた。
「君は、奪われたものをよく別の形に変えるな」
「そのまま持つと、重いので」
「軽くなったか」
「少しずつ」
完全に軽くなる日は、来ないかもしれない。それでも、重さの置き場所は変えられる。最後の返還金は、工房の新しい小さな箱になった。蓋には、テオが星を描いた。
◇
夏の初め、コレットが星濾工房を訪ねてきた。王都の商会で使っている検品帳を抱え、以前より実用的な服を着ている。華やかな令嬢だった頃の面影はあるが、袖口には紙の擦れた跡があった。
「ご無沙汰しています」
「ようこそ、星濾工房へ」
わたしは工房主として迎えた。コレットは作業場を見渡し、少し緊張したように息を吸った。
「ここで、あの記録が作られているのですね」
「あの記録だけではありません。苦情も失敗も、休業表もあります」
「見せていただけますか」
検品帳の改善確認が目的だった。彼女の帳面は、以前よりずっと良くなっていた。利益欄は最後に移り、返品理由の欄には、購入者を責める言葉ではなく、保管状態や説明不足を見る項目が増えている。ノラが横で見て言った。
「ちゃんと直ってます」
コレットは少し苦笑した。
「以前の私なら、あなたにそう言われて腹を立てたと思うわ」
「今は?」
「少しだけ痛い。でも、役に立つ痛みです」
ノラは考え、頷いた。
「それならいいです」
午後、コレットは市場の薬棚を一緒に見回った。誤飲防止の赤布、飲用札、保管場所。彼女は一つずつ写し、商会の棚にも取り入れると言った。帰り際、コレットは工房の入口で頭を下げた。
「リリアナ様。昔、あなたを笑ったことは、謝っても消えません。けれど、王都の棚を少しずつ変えます」
「はい」
「それを、許しの代わりにしてほしいとは言いません」
「そのほうが受け取りやすいです」
正直な言葉だった。コレットは少し安心したように笑った。馬車に乗る前、彼女は星濾工房の呼び鈴を見上げた。
「いい音ですね」
「古い鍵から作りました」
「閉じるものが、知らせるものに」
「ええ」
コレットが去ったあと、鈴が小さく鳴った。過去の人が全員、友人になるわけではない。それでも、同じ失敗を繰り返さない人として、別の道に立つことはできる。その距離が、今のわたしにはちょうどよかった。




