第44話 市場の火傷
夏前の市場で、小さな事故が起きた。油を扱う屋台で鍋が倒れ、若い売り子の腕に熱い油がかかったのだ。悲鳴が上がり、人が集まる。偶然、移動工房馬車の点検帰りだったノラとヨルクが近くにいた。わたしは別の場所にいて、あとから報告を受けた。
最初に動いたのはノラだった。
「冷たい水です。氷は直接当てないでください」
彼女は周囲の人に指示し、ヨルクに診療所への連絡を頼んだ。屋台の主人は慌てて油を拭こうとしたが、ノラが止めた。
「こすらないで。布で押さえるだけ」
ヨルクは赤い停止札を屋台の前に置いた。薬の作業ではない。それでも、危険を止める札として使った。診療所の医師が来るまで、ノラは火傷用の応急手順を守った。冷やす時間、皮膚の状態、痛みの強さ。すべてヨルクが記録した。
工房へ戻ってきた二人は、泥と汗でひどい顔をしていた。ノラは少し震えていた。
「先生、判断、合っていましたか」
わたしは記録を読んだ。冷却の方法。こすらないこと。医師への連絡。油のついた布の廃棄。
「合っています」
ノラは大きく息を吐いた。
「よかった」
ヨルクは停止札を洗いながら言った。
「市場の人、札を見たら下がってくれました」
「工房の札が、市場でも役に立ちましたね」
その日の夕方、屋台の主人が礼を言いに来た。売り子の火傷は軽くはないが、悪化は防げたという。
「薬を売ってない時まで助けてもらって」
「薬を売る前に、悪化を止めることもあります」
主人は深く頭を下げた。事故報告は、市場組合にも提出した。油鍋の位置、通路幅、火傷時の水桶。次に同じ事故を減らすためだ。ノラは報告書の最後に自分の名を書いた。以前より、字が力強くなっている。
工房員が育つとは、わたしの代わりになることではない。それぞれの場所で、止める手を持つことなのだと思った。
◇
その夜、工房の呼び鈴が鳴った。古い鍵から作った星が、澄んだ音を立てる。夜半の来訪は、急ぎのことが多い。わたしが扉を開けると、東門診療所の受付が立っていた。肩で息をしている。
「子どもが、誤って強い酒精の薬液を飲みました。量は少ないですが、眠そうで」
胸が冷えた。誤飲は時間との勝負だ。工房員を起こす前に、確認する。
「薬液の種類、量、時間は」
「種類は消毒用の酒精薬。量は小さな杯半分ほど。三十分前。吐いてはいません」
わたしは緊急箱を取り、ノラを呼んだ。休息時間だが、緊急規定に従う。セドリック様も起きてきた。
「護衛を出す」
「お願いします。工房はノラとわたしで行きます。ビアンカには記録連絡を」
夜の道は静かだった。診療所に着くと、母親が子どもを抱いて泣いていた。棚の薬液を水薬と間違えたという。責めても意味はない。今は状態を見なければならない。
子どもの呼吸、体温、反応。医師が胃の処置を準備し、わたしは補助薬と水分管理を担当した。ノラは母親に付き添い、聞き取りをする。
「瓶はどこにありましたか」
「台所の棚に。字が読めなくて、青い瓶だから前にもらった水薬だと思って」
青い瓶。色だけで判断した。テオの札の重要性が、また別の形で見えた。処置が終わる頃、子どもの意識は少し戻った。まだ経過観察は必要だが、最初の危険は越えた。母親は何度も謝った。
「わたしが悪いんです」
「原因は一つではありません。保管場所、瓶の色、札の文字、説明。全部確認します」
わたしは言った。責めれば終わりに見える。でも、仕組みを直さなければ別の家でまた起きる。夜明け前、工房へ戻ると、呼び鈴の星が扉の上で揺れていた。閉じた過去の鍵が、今夜は子どもの危険を知らせた。その音を、わたしは忘れない。
◇
誤飲事故の翌日、工房は朝から瓶を並べた。消毒用、飲用、水薬、外用薬、濃縮液。色だけでは区別できない。青い瓶は美しいが、以前の水薬にも使っていた。形も似ている。字が読めない人や、夜の暗い台所では間違える可能性がある。
テオは、瓶をじっと見ていた。
「飲んじゃ駄目なものは、手触りで分かるようにできませんか」
「手触り」
「暗くても分かるように」
良い着眼だった。ラナが言う。
「港では、危険な縄に結び目を付けます。暗くても触れば分かるから」
ヨルクも頷いた。
「炭焼き村では、刃物の袋に硬い木札を付けます」
工房員の生活が、瓶の改善につながる。わたしたちは、飲用禁止の瓶にざらついた帯を巻くことにした。さらに、蓋を黒ではなく粗い赤布で覆う。札には大きく、口に入れない絵を描く。字だけに頼らない。ノラは事故記録を読んで言った。
「お母さんを責める声が出そうです」
「出るでしょう」
「どうしますか」
「責める声ではなく、対策を先に出します。責めるだけでは、次の人が隠します」
診療所、商人組合、教会に新しい保管札を配った。
『飲まない薬は、飲む薬と同じ棚に置かない』
『暗くても分かる印を付ける』
『子どもの手が届かない場所へ』
簡単なことだ。だが、簡単なことほど、忙しい暮らしの中で抜ける。夜、誤飲した子どもは無事に目を覚ましたと連絡が来た。工房に安堵が広がる。わたしは事故記録の最後に書いた。
『瓶の色は安全ではない。形、手触り、保管場所、説明を組み合わせる』
この記録は、次の規格意見にも入れる。小さな事故は、隠さなければ大きな予防になる。星濾工房の棚は、また少し変わった。




