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夫の功績にされていた天才錬金術師ですが、妻を辞めたのでポーションも魔導具も作りません  作者: 小竹X


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第43話 初日の手洗い

新しい見習いの初日は、薬草に触らない日になった。ラナとヨルクは少し残念そうだったが、ノラは厳しい顔をしている。


「まず手洗いです」


 桶の位置、石鹸、爪の間、布の交換。手を洗うだけなのに、手順は多い。ラナは魚運びの仕事で手が荒れていた。傷がある指には、薬液が染みる危険がある。


「この指は、今日は調合に入りません」


 ノラが言う。


「でも、働けます」


「記録と札ならできます。無理に薬液に触る必要はありません」


 ラナは少し驚いた顔をした。ヨルクは手を洗ったあと、布をどこへ置けばよいか迷っていた。テオが廃棄箱を指す。


「濡れた布はここ。きれいな布と混ぜない」


「分かった」


「分かったら札にも書いて」


「字が下手なんだ」


「下手でも読めればいい」


 テオの言い方は、先輩らしくなっていた。午後は、停止札の練習をした。わたしがわざと、薬草の皿に違う葉を一枚混ぜる。ラナは気づいたが、手を上げるだけだった。ノラが首を振る。


「声に出して、札を置きます」


 ラナは緊張しながら赤い札を置いた。


「停止です。違う葉があります」


「よく止めました」


 工房全員が手を止める。静かな一瞬。それから、確認が始まる。ヨルクはその静けさに驚いていた。


「本当に止まるんですね」


「本当に止まります」


 わたしは答えた。


「止まらない札は、札ではありません」


 夕方、二人は疲れた顔をしていた。薬草を煮ていないのに、ずいぶん働いたように見える。ラナが言った。


「薬って、作る前が長いんですね」


「作る前が短すぎると、あとで長く苦しむ人が出ます」


 彼女は真剣に頷いた。初日の記録には、こう書かれた。


『手洗い、布管理、停止札。薬草調合なし』


 それでいい。星濾工房の見習いは、まず止まることから始まる。


 ◇


王都から、また別の書類が届いた。今回は宮廷錬金術局ではなく、王室産業庁からだった。星水濾過器と星風濾過器について、王室特許として登録し、王都管理のもとで製造権を広げたいという申し入れである。条件だけ見れば、魅力はある。


 工房には報酬が入り、名も残る。王国全土へ道具が広がる可能性もある。だが、独占管理という言葉が気になった。わたしは相談記録を開き、皆で読み合わせた。


「王都管理になると、地方の工房が修理できなくなるかもしれません」


 ビアンカが言う。


「特許料が高くなれば、貧しい村は使えません」


 ノラも眉を寄せる。


「せっかく炭焼き村の炭を使ってるのに、王都の部品だけになったら困ります」


 その通りだった。わたしは返答案を書いた。登録は認める。ただし、基本構造は公開する。安全基準を満たす地方工房には製造と修理を許可する。特許料は低く、災害時は免除。星濾工房の名は残すが、独占はしない。セドリック様が読んで言った。


「報酬は減るぞ」


「はい」


「それでも?」


「濾過器は、使える場所が増えるほうが意味があります。高価な名誉品にしたくありません」


 彼は頷いた。


「君らしい」


「商売が下手という意味ですか」


「必要なところで線を引ける、という意味だ」


 王室産業庁への返書には、実例も添えた。東井戸の濁り水。南区の粉塵。炭焼き村の炭材。道具は、現場に合わせて直せなければ死ぬ。数週間後、返答が来た。条件付きで受理。星濾工房方式として基本規格を登録し、地方製造を認める。


 ノラが書類を見て言った。


「先生、また王都に赤字を入れて勝ちましたね」


「勝ち負けではありません」


「でも、勝ちました」


 わたしは苦笑した。名を残すことと、囲い込むことは同じではない。わたしが欲しいのは、誰かの棚に使える道具が届くことだ。そのためなら、星の印は小さくていい。


 ◇


港町の商人組合から、分室を出さないかという話が来た。港では魚の保存薬、船員の擦り傷薬、潮風で傷む道具の修理が多い。星濾工房の札と記録法を使いたいという。ただ、分室という言葉は簡単ではない。


 看板だけを貸せば、星濾工房の名で質の低い薬が出る可能性がある。逆に、すべてをこちらで管理すれば、工房員が疲弊する。わたしは港町へ視察に行った。同行したのはビアンカとラナだ。ラナの実家が港にあり、匂いと水の事情に詳しい。


 港の空気は、塩と魚と濡れた木の匂いが混じっていた。倉庫の一角に、候補地がある。広さは十分だが、湿気が強い。薬草の保管には向かない。


「ここに薬棚を置くのは危険です」


 ラナが言った。


「潮で瓶の蓋も傷みます」


 商人組合の男は驚いた顔をした。


「見習いさんが分かるのかい」


 ラナは少し肩をすくめた。


「港育ちなので」


 わたしは頷いた。


「この場所なら、調合ではなく受け渡しと説明の窓口が向いています。保存薬の調合は内陸の工房で行い、港では保管期間を短くする」


 ビアンカが費用表を作る。港分室ではなく、港連絡所。最初は月に数日、工房員が出向く形にする。常設は、湿気対策と現地責任者の育成ができてから。商人組合は少し残念そうだったが、無理な看板貸しはしないと伝えた。帰り道、ラナが言った。


「私、役に立ちましたか」


「とても」


「港の匂いが分かるだけなのに」


「匂いが分かることは、立派な技術です」


 彼女は少し照れた。工房の分室案は、急がず進めることにした。広がる時ほど、足元を見る。それも星濾工房の規則だった。

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