第42話 古い鍵の行き先
ローウェル家を出る時に持ってきた鍵を、長い間引き出しに入れていた。工房の鍵ではない。あの家の、夜の作業場の鍵だ。もう扉には合わない。管財人から、工房は解体され、別の倉庫に改装されたと聞いている。それでも捨てられなかった。
逃げた日の手の感触が、そこに残っている気がしたからだ。ある夜、わたしはその鍵を作業台に置いた。セドリック様も工房にいた。
「どうするんだ」
「分かりません。捨てるのも、保管するのも、どちらも少し違う気がして」
鍵は黒ずみ、持ち手の部分に傷がある。あの日、わたしはこれと調合記録だけを持って出た。妻であることを辞めた証であり、閉じた扉の証でもある。テオが、遠慮がちに言った。
「溶かして、何かにできますか」
わたしは顔を上げた。
「何かに」
「扉を開けるものだったなら、今度は知らせるものにするとか」
ノラが手を打った。
「工房の呼び鈴!」
少し驚いた。けれど、今の工房には合っている。鍵をそのまま飾るのではなく、工房に来た人を知らせる鈴の一部にする。閉じた部屋の鍵を、開いた工房の音に変える。翌日、鍛冶職人に相談した。
鍵だけでは金属が少ないので、星形の小さな留め具にすることになった。鈴本体は澄んだ音の出る真鍮で作る。完成した呼び鈴は、入口の扉に取り付けられた。古い鍵の金属は、小さな星として鈴の上に付いている。扉が開くと、軽い音が鳴った。
高すぎず、低すぎず、工房に合う音。わたしはしばらく、その音を聞いていた。ローウェル家の鍵は、もうわたしを閉じ込めない。誰かが星濾工房へ来たことを知らせる。過去を消すのではなく、役割を変える。それが、わたしにできる手放し方だった。
◇
星濾工房が正式に開いてから、一年が経とうとしていた。まだ一年。もう一年。どちらの感覚もあった。作業台には、二年目の計画表が広げられている。移動工房馬車の巡回回数を増やす。春の水対策を、雪解け前に各地区へ説明する。
凍傷札を冬前に配る。基金の監査日を固定する。見習い募集を始める。最後の項目で、ノラがそわそわしていた。
「見習いが増えたら、私が教えるんですか」
「教える側になります」
「まだ失敗します」
「失敗しない人が教えるのではありません。失敗を記録して直せる人が教えます」
ノラは焦げた鍋を見た。今も棚の目立つ場所に置いてある。
「じゃあ、教えます」
その返事が頼もしかった。テオは札係として、見習い用の説明絵を作っている。最初に教えることは、薬草の名前ではなく、手を洗う場所と、赤い停止札の使い方だ。セドリック様は計画表を見て言った。
「増やしすぎていないか」
「相談記録に書きましょう」
「その言葉を聞くと安心する」
わたしも少し笑った。二年目の計画は、夢だけでは作らない。人員、休み、費用、危険、断る基準。全部を入れる。それでも、胸は弾んだ。ローウェル家を出た時、わたしはただ作らないと決めた。夫のためには、もうポーションも魔導具も作らない。
その決断から始まった道が、今はこんな計画表になっている。作らないことは、終わりではなかった。誰のために作るかを選ぶ始まりだった。計画表の一番上に、二年目の標語を書いた。
『名を残し、休みを残し、次の手を育てる』
ノラが読み上げ、テオが星印を描き、セドリック様が頷いた。工房の二年目は、もう始まっている。
◇
見習い募集の札を出す時、ノラは何度も文字を確認した。
『星濾工房、見習い二名募集。薬草に興味がある者。字を学ぶ意思がある者。失敗を申告できる者』
最後の条件が目立つ。町の掲示板に貼ると、通りがかった人が首を傾げた。
「失敗を申告できる者、か。変わった募集だな」
ノラは胸を張った。
「一番大事です」
その姿を見て、わたしは少し笑った。応募は思ったより多かった。薬を作りたい人。安定した仕事を探す人。家族を助けたい人。王都の講習資料を読んで来た人もいた。面接では、難しい薬草の名前は聞かなかった。代わりに、こう尋ねた。
「鍋を焦がしたら、誰に言いますか」
多くの人は戸惑った。正直に言った人もいる。
「怒られそうなので、少し混ぜてごまかすかもしれません」
ノラが目を鋭くしたが、わたしは止めた。
「今そう言えるなら、直せます」
面接で完璧な答えを求めるつもりはない。むしろ、自分の弱さを見える場所に出せるかどうかを見る。最終的に、一人目は港町から来た少女ラナに決まった。家族が魚運びをしており、匂いの違いに敏感だ。
二人目は、炭焼き村の少年ヨルク。凍傷で弟を助けた使いの少年の友人で、冬の説明札を見て工房に興味を持ったという。ノラは二人を前に、白い工房着の袖を整えた。
「最初に教えるのは、手洗いと停止札です」
ラナが驚く。
「薬草じゃないんですか」
「その前に、止まる方法を覚えます」
ヨルクは真剣に頷いた。
「止まるのは、怖くないんですか」
ノラは少し考えた。
「怖いです。でも、出してはいけない薬を出すほうがもっと怖いです」
それは、わたしが教えた言葉ではない。ノラ自身の言葉だった。見習い募集の札は、しばらく掲示板に残した。星濾工房は、人を増やす。ただ手を増やすのではなく、止まれる手を増やす。




