第41話 正式規格書
マリウスが王都へ戻って一月後、正式な薬剤規格書が届いた。表紙には王国錬金術局の印があり、分厚い紙の束になっている。ビアンカが慎重に開いた。
「緊張しますね」
「赤字を入れたくなるかもしれません」
「先生は入れます」
ノラが断言した。読んでみると、星濾工房の意見がかなり反映されていた。製造番号の義務化。失敗品廃棄記録。共同製作者の署名。苦情欄の保管。使用説明札の最低文字サイズ。さらに、地方工房からの緊急意見提出欄もある。完璧ではない。
曖昧な表現も残っている。それでも、以前とは明らかに違う。最後の参考資料欄に、星濾工房の名が載っていた。わたし一人の名ではなく、工房名と、協力者一覧。ノラが指でなぞる。
「私の名前もあります」
「焦げた鍋のところですね」
「そこだけですか」
「大事なところです」
テオは自分の名を見て、少し黙った。
「僕の札、王都の規格になったんですか」
「一部はそうです」
「字を大きくするだけなのに」
「字を大きくするだけで、飲み間違いは減ります」
小さな改善が、紙の上で王国の規格になる。それは少し不思議だった。夕方、領主館で規格書の写しを保管した。セドリック様は参考資料欄を見て、静かに笑った。
「君の工房の名が、王国の紙に残ったな」
「皆の名です」
「ああ。皆の名だ」
その言い直しが自然で、嬉しかった。工房へ戻る途中、東門の掲示板に新しい使用札が貼られているのを見た。大きな字。分かりやすい絵。相談先。王都の規格書より、その掲示のほうがずっと身近に見えた。紙の上の規格は、町で使われて初めて生きる。
星濾工房の仕事は、今日もその間をつなぐ。
◇
セドリック様が風邪をひいた。本人は認めなかった。
「少し喉が乾いただけだ」
「声がかすれています」
「会議で話しすぎた」
「額が熱いです」
「部屋が暖かい」
言い訳の種類は多いが、熱は熱だ。わたしは領主館の執務机から書類を取り上げた。
「今日は休んでください」
「まだ決裁が」
「代理手順があります」
「緊急の件が」
「本当に緊急なら、ビアンカが呼びます」
彼は悔しそうに黙った。以前、わたしが休めなかった時に言われたことを、今度はこちらが言う番だった。寝室で体温を測り、喉薬と温かい湯を用意する。薬は強いものではない。休息と水分が主だ。セドリック様は枕元で言った。
「君に看病されるのは、悪くない」
「嬉しそうにしないでください。病人です」
「すまない」
「謝るより寝てください」
彼は目を閉じた。大きな体が静かになると、部屋の空気も少し落ち着く。わたしは椅子に座り、薬の使用記録を書いた。領主だから特別な薬を使うわけではない。体質、症状、必要量。それだけを見る。夕方、熱は少し下がった。
セドリック様は目を覚まし、かすれた声で言った。
「仕事は」
「進んでいます。あなたが寝ている間に、世界は少しだけ自力で回りました」
「厳しいな」
「優しい言い方を選んでいます」
彼は笑おうとして咳き込んだ。わたしは湯を渡す。
「無理に笑わない」
「はい」
素直な返事が少しおかしくて、今度はこちらが笑いそうになった。夜、彼が眠ったあと、わたしは領主館の窓から工房の灯りを見た。誰かを大切にすることは、自分を削ることではない。
相手にも休んでもらい、仕組みに頼り、明日また働けるようにすることだ。夫の看病も、錬金術と同じだった。効きすぎる薬ではなく、必要な手順を守る。
◇
母が星濾工房を訪ねてきたのは、春の雨の日だった。父は同行しなかった。母自身が、一人で来ると決めたのだという。入口で傘を畳む手は、少し震えていた。
「お邪魔してもいいかしら」
「どうぞ。今日は工房を見てください」
わたしは客間ではなく、作業場へ案内した。母は白い工房着の皆を見て、棚の札を見て、記録板の名前を見た。すぐに言葉を出さなかった。薬箱を置いた資料棚の前で、足を止める。
「これ、置いてくれたのね」
「はい。最初の処方箋も」
母は黄ばんだ紙を見た。十歳のわたしの字。蜂蜜を入れすぎた熱冷まし。
「あなたは、小さい頃からこうだったわ」
「そうですか」
「誰かが咳をすると、すぐ薬草の棚を見に行った」
母の声が揺れる。
「なのに、私はローウェル家であなたがどう働いているか、見に行かなかった」
謝罪の言葉は、父より遅かった。でも、母は棚を見てから言った。それが少しだけ違った。
「すみませんでした」
丁寧すぎる言葉に、胸が詰まった。母にそう言われる日が来るとは思わなかった。
「謝罪は受け取ります」
わたしはゆっくり言った。
「でも、昔に戻ることはできません」
「分かっています」
「これから会うなら、わたしの仕事を見てください。家の都合ではなく、わたしが今何を作っているかを」
母は涙を拭き、頷いた。そのあと、彼女はノラの作業を見学した。ノラは少し緊張しながら、補水薬の記録を説明する。母は真剣に聞いていた。帰り際、母は小さな布袋を出した。
「蜂蜜です。昔、あなたが使いすぎた台所のものより、少し良いもの」
わたしは受け取った。
「使いすぎないようにします」
母は泣き笑いの顔になった。雨の中、彼女が馬車へ戻っていく。親子の関係は、すぐに温かく戻るわけではない。けれど、母が見たのは、わたしの婚家ではなく、わたしの棚だった。それで今日は、十分だった。




