第40話 ノラの初処方
春の腹痛騒ぎが少し落ち着いた頃、東門診療所から急ぎの連絡が入った。子どもが軽い脱水を起こしている。医師は巡回中で、戻るまでに飲みやすい補水薬が必要だという。わたしは別の検査で手が離せなかった。ノラが、作業台の前で立った。
「先生。私が作ります」
工房が一瞬静かになった。補水薬は難しい薬ではない。だが、子どもの体重、症状、飲める量を確認しないと危ない。甘くしすぎれば吐き、薄すぎれば役に立たない。
「判断条件を言ってください」
わたしは手を止めずに聞いた。ノラは記録板を見た。
「発熱あり。吐き気は少し。下痢は二回。水は飲めるが、すぐ飽きる。医師到着までのつなぎ。塩と蜂蜜は少量。香りは薄く。量は一度に飲ませず、匙で少しずつ」
「禁忌は」
「意識がぼんやりする、尿が出ない、血便、強い腹痛なら医師を待たず搬送」
「作ってください。検品はマリウスさん」
ノラは短く頷き、星の計量匙を取った。手が震えている。でも、分量は正確だった。彼女は蜂蜜を入れすぎなかった。香りづけに薄い林檎皮を使い、子どもが飲みやすい温度まで冷ます。瓶ではなく、小さな注ぎ口のある壺に入れた。
マリウスが検品し、記録に署名した。ノラは自分の名前を書いた。ノラ。まだ姓はない。けれど、工房員としての名だ。診療所へ届ける時、彼女は説明札を自分で読み上げた。
「一度に飲ませないでください。小さな匙で、少しずつ。吐いたら無理に続けず、医師を呼んでください」
子どもの母親は、真剣に頷いた。夕方、医師から連絡が来た。子どもは落ち着き、強い脱水には進まなかったという。ノラはその場に座り込んだ。
「よかった」
「よく作りました」
わたしは言った。ノラは涙目で笑った。
「焦げた鍋の時より、手が震えました」
「責任のある震えです」
「嫌な震えじゃなかったです」
その言葉が嬉しかった。工房の棚に、新しい記録が増えた。
『補水薬。主担当ノラ。検品マリウス。確認リリアナ』
わたし一人ではない工房が、また少し形になった。
◇
星水濾過器の運用で、テオの札が役に立った。東門の井戸広場で、子どもが濾過器から出た水をそのまま飲もうとしたのだ。近くにいた老人が止めた。
「赤い札がある。煮なきゃ駄目だ」
子どもは不満そうだったが、札の絵を見て手を引いた。あとでその話を聞いたテオは、顔を赤くした。
「僕の札で止まったんですか」
「そうです」
「僕、薬は作ってません」
「でも、人を守りました」
テオは小さな手を見た。彼はまだ子どもだ。瓶洗いもできるが、重い鍋は持てない。処方判断もできない。それでも、読める絵を描くことはできる。工房の仕事は、薬を煮る人だけで成り立たない。その日、テオには新しい仕事を任せた。
すべての説明札を、子どもと老人が見ても分かるか確認する係だ。彼は真剣に札を並べた。
「これは字が多いです」
「どれですか」
「疲労回復薬。赤い字が多すぎて、どれが一番大事か分かりません」
確かに、以前の苦情後に赤字を増やしすぎていた。強調が多いと、何も強調されない。
「直しましょう」
テオは一番大事な一文を上に置いた。
『夜に飲まない』
その下に、食後、量、相談先。見やすくなった。ノラが感心して言う。
「テオ、札係ですね」
「札だけですか」
「札は大事です」
わたしも頷いた。
「工房の言葉を、町の人に渡す仕事です」
テオは少し照れた顔で、赤い鉛筆を握り直した。夕方、彼の札をまとめて資料棚に入れた。薬の処方箋と同じ棚だ。文字や絵は、瓶の中に入っていない。でも、使い方を誤らせないための大切な成分だった。
◇
マリウスに、王都への帰還命令が届いた。研修期間が終わり、規格改革班へ正式に戻るのだという。彼は封筒を持ったまま、しばらく工房の入口に立っていた。
「帰りたくない顔ですね」
ノラが言った。遠慮がない。マリウスは苦笑した。
「帰りたくないわけではありません。ただ、王都に戻るのが少し怖いです」
「どうしてですか」
「ここで学んだことを、王都で薄めてしまうのではないかと」
その不安は分かる。現場で身につけたものも、大きな組織に戻ると、書類の中で形を失うことがある。わたしは、彼に一冊の帳面を渡した。星濾工房の研修記録の写しだ。瓶洗い、葉の匂い、焦げた鍋、凍傷札、講習資料、質問箱。
彼自身の失敗と改善も入っている。
「王都で薄くなりそうな時は、これを読んでください」
「いただいていいのですか」
「あなたの記録です」
マリウスは帳面を両手で受け取った。ノラが、焦げた鍋の小さな写し絵を挟んだ。
「忘れないように」
「忘れられません」
テオは、自分の赤い札の写しを渡した。
「王都でも、字を大きくしてください」
「必ず」
出発の日、工房の前に皆が集まった。マリウスは白い工房着を返そうとしたが、わたしは止めた。
「持っていてください。袖口の星は、ここで学んだ証です」
「私は星濾工房員ではありません」
「研修工房員でした」
彼は目を伏せ、深く頭を下げた。
「王都で、名前と記録を残します」
「はい」
馬車が動き出す。ノラが大きく手を振った。
「焦げた匂い、忘れないでください!」
通りの人が振り返る。マリウスは馬車の中で笑い、頷いた。誰かが工房を離れても、仕事が途切れるわけではない。学んだものが別の場所へ移る。それもまた、工房が広がる形だった。




