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夫の功績にされていた天才錬金術師ですが、妻を辞めたのでポーションも魔導具も作りません  作者: 小竹X


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第4話 夫人ではなく、錬金術師として

北へ向かう馬車は、王都の石畳を離れるとすぐに揺れ始めた。


 窓の外では、春の畑がゆっくり遠ざかっていく。王都近郊の柔らかな緑は半日ほどで終わり、道は次第に固い土と針葉樹の匂いへ変わった。風も冷たい。まだ春だというのに、北から吹く空気には冬の名残があった。


 セドリック様は、わたしとビアンカに護衛付きの馬車を用意してくれた。


 それは親切ではあるけれど、甘やかしではなかった。出発前に交わした仮契約書には、仕事内容、報酬、滞在先、機密保持、そして「リリアナ・ヴェルネ名義で成果物を記録する」という一文が明記されている。


 紙の上の文字を見たとき、わたしは何度も読み返してしまった。


「奥様、もう一度見ますか」


 向かいに座るビアンカが、契約書の筒を膝から持ち上げる。


「見すぎかしら」


「少なくとも、私は七回数えました」


「では、八回目は控えます」


 そう答えて、わたしは少し笑った。笑えるのだと気づくまでに、二日かかった。


 王都を出てから、エドガーからの使者は一度も追いつかなかった。組合の契約錠停止が効いたのか、セドリック様の護衛を見て諦めたのかは分からない。ただ、王都の空気が背中から離れていくたび、呼吸は少しずつ楽になった。


 北境の主都アーヴェンに着いたのは、四日目の夕方だった。


 城壁は高く、黒い石で組まれている。王都のような華やかさはないが、門の前には荷馬車が並び、兵士も商人も忙しそうに動いていた。街の中央には大きな鐘楼があり、屋根から細い煙が幾筋も上がっている。生活の匂いがする街だった。


 馬車が城内へ入ると、先に戻っていたセドリック様が出迎えてくれた。外套を脱いだ彼は、舞踏会で見る貴族とは違う姿をしていた。質の良い服ではあるが、袖口には擦れがある。手袋の指先も使い込まれていた。


「長旅で疲れただろう」


「問題ありません。検査した薬の一覧をお渡しします」


 わたしが革袋から書類を出すと、彼は一瞬だけ眉を上げた。


「着いてすぐに仕事の話か」


「道中で進められるものだけです。割れていなかった瓶のうち、五十二本は使用不可、二十四本は希釈すれば外傷用に使えます。内服は避けてください。残りは、軽傷者向けなら使えますが、瓶ごとに効能差があります」


「マリウス」


 セドリック様が呼ぶと、眼鏡をかけた中年の男性が前へ出た。軍医兼補給官だという。マリウスさんは書類を受け取り、数行読んだだけで顔をしかめた。


「これはひどい。王都価格で買った高位回復薬の半分が使えないとは」


「混ぜ方が急ぎすぎています。材料費を削ったというより、工程を知らない人が見本の色だけを合わせたように見えます」


 言ってから、口の中が苦くなった。エドガーの手癖を、わたしは知っている。彼は成功した瓶しか見ない。失敗品がなぜ失敗したのかを確認する前に、色と香りの近いものを混ぜてしまう。失敗品は、捨てなければならない。


 それを何度説明しても、彼は「もったいない」と言った。


「リリアナ」


 セドリック様が静かに呼んだ。夫人でも、奥方でもない。名だけだった。


「こちらでは、君をローウェル夫人とは呼ばない。呼ばせない。だが、君の望む呼称があれば言ってくれ」


「ヴェルネでお願いします。まだ離縁が成立していないので、法的にはローウェル姓が残っていますが」


「ここでの契約名はヴェルネだ。書類もそう処理する」


「ありがとうございます」


 それだけで胸が詰まりそうになったのを、書類の角をそろえることで隠した。工房は、城の東棟に用意されていた。


 元は薬草保管庫だったらしい。石壁は厚く、窓は小さい。王都の工房のような磨かれた棚はないが、水場が近く、換気窓もあり、何より鍵が新しい。


「古い設備が多い。足りないものは言ってくれ」


「炉の火力は弱いですが、低温抽出には向いています。水の硬さを確認したいです。あと、棚は日光が当たらない位置へ移動した方がいいですね」


「初日に棚の位置まで見るのか」


「保存状態で薬効が変わりますから」


 マリウスさんが小さく笑った。


「辺境伯様、良い方を連れてこられましたな。棚を見て喜ぶ錬金術師は信頼できます」


「喜んではいません」


「失礼。顔が少し明るくなっておりましたので」


 慌てて頬に触れると、ビアンカが後ろで肩を震わせていた。少しだけ、空気が柔らかくなる。けれど、契約の話になると、わたしは表情を整えた。


「セドリック様。仕事を受ける前に、条件を三つ追加させてください」


「聞こう」


「一つ目。成果物の瓶には、調合者の名と調合日を記します。二つ目。失敗品の再利用を命じられても従いません。三つ目。危険と判断した依頼は、たとえ領主命令でも断ります」


 マリウスさんが息を止めた。領主に向かって、領主命令でも断ると言ったのだ。無礼と取られてもおかしくない。セドリック様は、しばらく黙っていた。その灰色の瞳は、怒っているようには見えなかった。むしろ、こちらの言葉を測っている。


「理由は」


「守るためです。薬は、人を救うためにあります。けれど間違えれば、人を傷つけます。わたしが責任を持つなら、わたしが止める権利も必要です」


 声は震えなかった。王都でできなかったことを、ここでは最初に言わなければならない。セドリック様は、腰の書類入れから万年筆を取り出した。


「追加する」


「よろしいのですか」


「断らない錬金術師より、断る理由を持つ錬金術師の方が戦場では役に立つ」


 彼は契約書の余白に、わたしの条件を書き込んだ。筆跡は端正で、線に迷いがない。最後に署名欄へ自分の名を書き、こちらへ差し出す。


「リリアナ・ヴェルネ。北境アーヴェンは、君を錬金術師として雇う」


 わたしはペンを受け取った。リリアナ・ヴェルネ。久しぶりに書いた自分の名は、少しだけぎこちなかった。けれど、その文字は夫の名前の下ではなく、契約の同じ高さにあった。


 ◇


アーヴェン城の治療室は、王都の施療院より静かだった。


 静かと言っても、穏やかな場所という意味ではない。低い呻き声、布を絞る水音、薬草を潰す石鉢の音。そうした音が、必要な分だけ鳴っている。誰も余計な悲鳴を上げないし、誰も痛みを大げさに飾らない。北境の兵士たちは、痛みに慣れすぎていた。


「ヴェルネ殿、こちらです」


 マリウスさんに案内された奥の寝台に、若い兵士が座っていた。肩から腕にかけて包帯が巻かれている。顔色は悪いが、目ははっきりしていた。


「名はイーサン。巡回中に魔狼に噛まれました。傷は塞がりかけていますが、熱が下がりません」


 イーサンは、わたしを見るなり苦笑した。


「また回復薬ですか。王都のなら勘弁してほしいな。あれ、傷より胃が痛くなるんで」


「王都のものではありません。ここで調合します」


「それでも、痛いんでしょう」


「少しは。けれど、焼けるような痛みにはしません」


 彼は半信半疑の顔をした。無理もない。痛い薬に慣れた人は、痛まない薬を疑う。薬は苦いもの、傷は焼いて塞ぐもの、強い効き目には強い副作用があるもの。そう信じ込まされている患者は多い。けれど、痛みは効能の証ではない。


 わたしは傷の周囲を確認した。噛み傷は塞がっているが、皮膚の下に熱が残っている。王都の高位回復薬で表面だけ急いで閉じたのだろう。魔狼の唾液に含まれる冷毒が、内側に残っている。


「傷口をもう一度開きます」


 イーサンの顔が引きつった。


「え」


「表面を少しだけです。残った冷毒を出してから、低刺激の回復薬で閉じ直します。今のまま強い薬を入れると、熱が下がりません」


「……それ、痛いんじゃ」


「痛いです」


「正直だなあ」


「嘘をつくと、次の説明を聞いてもらえなくなりますから」


 イーサンはしばらくわたしを見て、それから小さく息を吐いた。


「分かりました。お願いします」


 治療は、時間のかかる作業だった。冷毒を抜くための薬液は、強すぎると周囲の肉を傷める。弱すぎると意味がない。わたしはイーサンの体温を測り、舌の色を見て、汗の匂いを確認した。王都では、こういう手順を「遅い」と言われた。


 ここでは、マリウスさんが黙って記録を取っている。その沈黙が、ありがたかった。


「この紫の粉は何ですか」


 イーサンが不安そうに尋ねる。


「月苔を乾燥させたものです。冷毒と結びつくと色が薄くなります。色が変わらなくなったら、毒が抜けた合図です」


「へえ。薬って、そんなふうに分かるんですね」


「分かるように作ります」


 薬液を落とすと、傷の端から黒ずんだ液が滲んだ。イーサンの手が寝台の縁を掴む。ビアンカがすかさず布を差し出した。


「痛みますか」


「痛いですけど……思ったより、我慢できます」


「では続けます」


 最後に、淡い青の回復薬を塗った。王都の高位回復薬のような鮮やかな色ではない。光に透かすと、ほとんど水に見える。けれど、沈殿はない。匂いも軽い。皮膚に触れると、イーサンの肩の緊張が少しずつほどけていった。


「……熱いのに、痛くない」


「熱が外へ出ています。包帯を替えながら、今日と明日はこの薬を使ってください。内服用も出しますが、食後に少量です。空腹で飲むと胃が冷えます」


「こんなに細かく書いてある」


 瓶に貼った札を、イーサンが眺めている。調合日。用途。使用量。副作用の兆候。調合者名。最後の行に、リリアナ・ヴェルネと書いた。


「名前、書くんですね」


「責任を持つためです」


 そう言うと、治療室の入り口に立っていたセドリック様が、わずかに目を細めた。見られていたことに気づいて、少しだけ背筋が伸びる。


「経過は」


「今夜、熱が下がるか確認します。明日の朝までに悪化しなければ、三日で歩けます」


「悪化した場合は」


「調合を変えます。原因を見ずに薬を増やすことはしません」


「分かった」


 セドリック様は、寝台のイーサンへ視線を移した。


「痛みは」


「大丈夫です。王都の薬より、ずっと」


 若い兵士はそこで言葉を止めた。領主の前で王都を悪く言うのをためらったのだろう。セドリック様は、彼を責めなかった。


「正直に報告しろ。痛くない薬があるなら、痛い薬をありがたがる理由はない」


 その言い方に、治療室の空気が少しだけ緩んだ。わたしは使った器具を片づけながら、ほっと息を吐いた。大きな成果ではない。たった一人の兵士の肩だ。けれど、瓶の名前を見て、説明を聞いて、患者が納得して薬を受け取った。


 それは、王都でずっと欲しかった仕事の形だった。夕方、イーサンの熱は下がり始めた。マリウスさんは記録帳を閉じ、満足そうに頷いた。


「ヴェルネ殿。兵たちが、明日の朝から診てほしいと言っています。痛まないポーションの錬金術師が来た、と」


「痛まないわけではありません。痛みを減らすように調整しているだけです」


「兵には、その違いが大きいのです」


 セドリック様が、治療室の窓辺から言った。外では、城壁の上に夕日が当たっている。黒い石が赤く染まり、遠くの山並みにまだ雪が残っていた。


「君の薬は、兵に自分の体を雑に扱わせない」


「薬だけでは、そこまで」


「説明も薬の一部だ」


 その言葉は、静かに胸へ沈んだ。王都では、説明は遅れの原因だった。記録は面倒な紙束で、瓶の札は不要な飾りだった。ここでは、それが仕事として扱われている。嬉しいと思った。けれど同時に、怖くもあった。


 正しく評価されるということは、隠れられないということでもある。夫の背中に立っていたときは、傷ついても、失敗しても、名を呼ばれなかった。責任も名誉も奪われたが、顔を上げなくて済む言い訳もあった。今は違う。


 瓶の札には、わたしの名がある。ならば、明日の朝も、その名に恥じない薬を作らなければならない。わたしは記録帳を開き、新しいページにイーサンの経過を書き込んだ。リリアナ・ヴェルネ、一例目。文字は、もう震えていなかった。

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