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夫の功績にされていた天才錬金術師ですが、妻を辞めたのでポーションも魔導具も作りません  作者: 小竹X


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第5話 北壁の古い工房

工房の掃除は、薬を作るより時間がかかった。


 城の東棟に用意された部屋は、元が薬草保管庫だっただけあって棚は多い。けれど棚の奥には古い埃が溜まり、窓枠には乾いた苔が入り込んでいた。床の石は丈夫だが、一部に水が染みている。換気窓の蝶番は固く、主炉の煙道には鳥の巣の跡まであった。


「これ、使えるんですか」


 ビアンカが箒を持ったまま、天井を見上げる。


「使えるようにします」


「奥様のその言い方、だいたい徹夜の前触れです」


「今日は徹夜しません。まずは埃を出すだけです」


「信じていい言葉ですか」


「半分くらいは」


 ビアンカは深くため息をついたが、箒を動かす手は早かった。昼過ぎには、マリウスさんが二人の手伝いを連れてきた。一人は木工が得意な老兵で、もう一人は十二、三歳ほどの少女だった。赤茶色の髪を短く切り、袖を肘までまくっている。


「ノラと申します。薬草採りの見習いです」


 少女は元気よく頭を下げた。


「薬草採り?」


「はい。母が城の薬草畑で働いてます。私は葉っぱの見分けと、虫を追い払うのが得意です」


 得意なことが虫を追い払うことだと言い切れるのは、どこか頼もしい。


「では、乾燥棚の整理をお願いできますか。葉が砕けて粉になっている袋は、別に分けてください。捨てるか、外用に回せるか見ます」


「捨てるんですか。もったいなくないですか」


「薬に使うには危ないものがあります。もったいないからと混ぜると、患者が苦しみます」


 ノラは少し目を丸くした。


「捨てるのも仕事なんですね」


「大事な仕事です」


 言いながら、王都の工房を思い出した。失敗品を捨てるたび、エドガーは嫌な顔をした。高価な材料を無駄にするな、色は似ているのだから混ぜればいい、使い道を考えろ。彼はそう言った。使い道を考えることと、危険をごまかすことは違う。


 それを分かってもらうために、わたしは三年を使った。分かってもらえなかった。


「ヴェルネさん?」


 ノラの声で我に返る。


「すみません。考え事をしていました」


「この袋、虫が入ってます」


「それは迷わず捨てましょう」


 少女は嬉しそうに袋を持ち上げた。掃除をしながら、工房の配置を決めていく。


 水場の近くに洗浄台。窓から遠い壁に乾燥棚。主炉の横には耐熱石の作業台を置き、薬草の下処理は別の卓で行う。記録机は入口から見える場所にした。誰が来ても、最初に記録帳が目に入るように。ビアンカはそれを見て、少しだけ笑った。


「奥様、記録帳を見張り役にするおつもりですか」


「見張り役というより、玄関です。薬は記録から始まって、記録へ戻ります」


「旦那様が聞いたら、嫌そうな顔をなさいますね」


「もう聞かなくていい人です」


 口にしてから、自分でも驚いた。怒りではなく、ただの事実として言えた。夕方、セドリック様が工房を見に来た。彼は入口で足を止め、掃除中の床を見てから、泥のついた靴を脱いだ。


「入ってもいいか」


「どうぞ。まだ何も完成していませんが」


「工房は、完成する前の方が持ち主の考えが出る」


 不思議なことを言う人だと思った。彼は棚の位置や水場の高さを眺め、記録机の前で立ち止まった。


「入口に置くのか」


「はい。誰が何を依頼し、何を渡し、どんな結果だったか。最初から書くようにします。口約束を減らすためです」


「良い」


 短い評価だった。けれど、そこには軽い褒め言葉よりも重みがあった。


「必要な設備は」


「抽出炉の補修、濾過器の交換、水質検査用の試薬、乾燥用の低温棚。それから、可能なら小型の魔力測定器が欲しいです」


「王都から取り寄せる」


「高価です」


「兵の命より安い」


 即答だった。その答えに、ノラが小さく「おお」と声を漏らす。マリウスさんは苦笑して、少女の頭を軽く小突いた。セドリック様は気にせず、古い主炉へ近づいた。


「これは使えそうか」


「炉としては古いですが、火の癖が穏やかです。高温の大量調合には向きませんが、体質別の小分け調合なら使えます」


「君らしい判断だな」


「わたしらしい、ですか」


「大きく見せるより、使う相手に合わせる」


 その言葉に、手元の布を握りしめた。夫は、わたしの調合を地味だと言った。効き目を派手に見せず、色も香りも控えめで、発表映えしないと。宮廷の貴族たちは、黄金色に光る薬や、飲むだけで傷が一瞬にして塞がる薬を好む。


 けれど、薬を使うのは発表会の来賓ではない。傷の痛みに耐える兵士で、熱を出した子どもで、冬を越すために手を動かす人たちだ。


「ありがとうございます」


 声が少し小さくなった。セドリック様は、聞き返さなかった。夜、工房に最初の灯を入れた。


 まだ棚は半分しか片づいていない。床の隅には埃の山があり、主炉は明日煙道を掃除しなければ使えない。それでも、記録机の上に白い帳面を置くと、部屋の形が決まったように見えた。表紙には、まだ何も書いていない。


「工房名、どうします?」


 ノラが窓枠を拭きながら聞いた。


「工房名?」


「だって、ここで薬を作るんですよね。名前があった方が、町の人が呼びやすいです」


 名前。また、名前だ。わたしは白い表紙を見つめた。急いで決める必要はない。けれど、空白のままにもしておきたくない。


「まずは、アーヴェン東工房で」


 無難すぎる答えに、ノラは少し不満そうな顔をした。


「もっときれいなのがいいです」


「では、仕事をしてから考えましょう。名前に負けないように」


 ビアンカがくすりと笑った。古い工房に、小さな火が灯る。わたしの手元の白い帳面は、まだ空白だ。けれど、空白は怖いだけのものではない。これから書ける場所でもある。


 ◇


アーヴェンへ来て七日目の朝、王都から最初の手紙が届いた。封蝋はローウェル家のものだった。


 ビアンカは朝食の盆を持ったまま、封筒を見て眉を寄せた。わたしは薬草の乾燥具合を記録していた手を止め、机の上に布を敷く。工房に私情を置きたくはなかったが、私情が仕事へ食い込んでくるなら、仕事として扱うしかない。


「開けますか」


「開けます。証拠になりますから」


 封を切ると、強い香水の匂いがした。エドガーの筆跡は、相変わらず大きく流れている。読ませるためではなく、見せるための文字だ。内容は短かった。すぐ戻れ。


 工房の停止でローウェル家がどれほど迷惑を受けているか、妻として分かっているはずだ。今回の騒ぎは君の疲れから来る一時の感情だと宮廷には説明しておいた。戻れば、君を責めはしない。コレット嬢にも謝罪の場を設ける。


 最後に、二百本の回復薬の処方を至急送るように、とあった。


「責めはしない、ですって」


 ビアンカの声は、朝の水桶より冷たかった。


「責められる側だと、まだ思っているのね」


 わたしは手紙を読み返し、日付を記録した。返信用の紙を出しかけて、止める。


「返事はなさらないのですか」


「今回はしません」


「怒らせませんか」


「返事をしても怒ります」


 そう言うと、ビアンカは少しだけ口元を緩めた。以前のわたしなら、丁寧に説明しただろう。青晶草の品質、契約錠の規約、処方を勝手に送れない理由、夫婦関係と個人登録の違い。読まれない説明を、読まれないと分かっていて書いていた。


 今は、それをしない。必要な返答は、すでに組合を通じて送ってある。離縁状も、請求書も、工房設備の停止通知も、正式な手続きを踏んだ。夫の感情へ直接返事をする義務はない。けれど、指は紙の端を撫でていた。胸が痛まないわけではない。


 三年分の習慣は、七日で消えない。夫が困っていると聞けば、何を足せば間に合うか、どの工程を短縮できるか、勝手に頭が計算を始める。その計算を止めることも、今のわたしの仕事だった。


「ヴェルネ殿」


 工房の入口から、マリウスさんが顔を出した。


「お忙しいところ申し訳ありません。治療室の薬品棚を一緒に見ていただけますか。昔の在庫が多く、使えるものと捨てるものを分けたいのです」


「すぐ行きます」


 わたしはローウェル家の手紙を、証拠袋に入れた。そこへ日付を書き、記録帳の後ろへ挟む。返事をしない、という選択にも記録が要る。治療室の薬品棚は、工房よりずっと混沌としていた。


 古い傷薬、乾いた軟膏、誰かが字を忘れた瓶、外箱だけ残った薬草粉。マリウスさんは几帳面な人だが、辺境の医療はいつも不足と隣り合わせだ。捨てた方がいいと分かっていても、冬の夜に代わりがないと、棚へ戻してしまう。


「こちらは捨てます」


「まだ半分残っていますが」


「匂いが変わっています。内服は危険です。外用にも使わない方がいい」


「では廃棄箱へ」


 マリウスさんは文句を言わず、箱へ入れた。その素直さに、かえって胸が詰まる。


「もったいないと、言わないのですね」


「言いたくはあります。ですが、死なせる方が高くつきます」


「……そうですね」


 棚の整理が進むにつれ、使える薬は思ったより少ないことが分かった。特に解熱薬と胃薬が足りない。王都からの入荷が遅れると、軽い病でも悪化する。わたしは不足リストを書きながら、エドガーの手紙を思い出した。彼は今、処方を欲しがっている。


 けれど、こちらには患者がいる。わたしの手は一つしかない。ならば、手を向ける相手を選ばなければならない。昼過ぎ、セドリック様が治療室へ来た。


「ローウェルから手紙が届いたと聞いた」


「はい。証拠として保管しました。返事はしません」


「それでいい」


 短い言葉だったが、許可ではなかった。確認でもない。わたしの判断を、そのまま受け取る声だった。その違いに、まだ慣れない。


「もし、王都から正式な照会が来た場合は」


「こちらの文官を通す。君に直接返事を迫らせない」


「ありがとうございます」


「礼は不要だ。君に仕事をしてもらうための環境整備だ」


 環境整備。夫は、わたしの我慢を環境だと思っていた。この人は、わたしが我慢しすぎない仕組みを環境と呼ぶ。同じ言葉でも、置く場所が違う。夕方、工房へ戻ると、ノラが小さな木札を入口に掛けていた。アーヴェン東工房。


 文字は少し曲がっているが、丁寧に彫られている。


「仮の名前です」


 ノラは照れたように言った。


「本当の名前が決まるまで、誰かに間違えられないように」


 わたしは木札に触れた。仮の名前でも、入口に名前がある。それだけで、返事をしなかった手紙の重さが少し軽くなった。


「ありがとう、ノラ」


「いえ。あの、ヴェルネさん」


「何?」


「名前って、書くと逃げにくくなるけど、見つけてもらいやすくもなりますね」


 少女の何気ない言葉に、手が止まった。


「そうね」


 わたしは工房の中へ入り、記録帳を開いた。ローウェル家への返事はしない。けれど、今日使える薬と、明日必要な薬のリストには返事をする。それが、今のわたしの選んだ順番だった。

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