第3話 辺境伯は青い沈殿を見逃さない
朝の錬金師組合は、薬草と紙の匂いがした。入口の扉を開けると、受付の奥で眠そうな職員が書類を束ねている。王都の大通りはまだ濡れていて、靴の先に泥がついた。ビアンカは旅行鞄を抱えたまま、警戒したように周囲を見回している。
「リリアナ・ヴェルネです。個人工房登録の確認と、契約錠の解除手続きをお願いします」
受付の女性は、名を聞いた瞬間に顔を上げた。
「ヴェルネ……ローウェル子爵夫人ではなく?」
「本日は、錬金術師リリアナ・ヴェルネとして来ました」
言ってから、胸の奥が少し震えた。自分の名を、こんなにまっすぐ口にするのは久しぶりだった。
職員は何かを察したのだろう。余計なことは聞かず、分厚い登録簿を引き寄せた。手続きには時間がかかった。契約錠の解除、登録炉の移転、材料費の証明、離縁に伴う工房権利の確認。どれも地味で、面倒で、けれど必要なことだった。
昼前になって、ようやく最後の印が押された。
「こちらで、ローウェル家の主抽出炉は一時停止扱いになります。登録者の同意なしに稼働した場合、組合規約違反です」
「ありがとうございます」
「それと……南門の薬舗から伝言です。昨夜、ローウェル家から高位回復薬の材料を買い占めようとした方がいたそうです。品質確認をしないまま、青晶草を大量に」
胸の奥が冷えた。エドガーだ。
彼は本当に、わたしなしで明朝の納品をするつもりなのだろう。材料を混ぜれば同じものができると思っている。けれど高位回復薬は、材料の名前だけで決まらない。青晶草は採取から二日目と五日目で魔力の癖が違う。乾燥の熱が高ければ、瓶の底に青い沈殿が残る。
それは、人の胃を焼く。
「奥様」
ビアンカが小声で呼んだ。
「表に、旦那様のお使いらしき方が」
窓の外に、ローウェル家の紋章を付けた馬車が停まっていた。予想より早い。わたしは書類を鞄へ入れ、裏口から出ることにした。逃げるようで悔しかったが、ここで押し問答をしても時間を奪われるだけだ。
組合の裏手は、荷馬車が通る細い道だった。雨は上がっていたが、空は低い。王都南門へ向かう途中で、遠くから馬の嘶きが聞こえた。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。角を曲がった先で、荷馬車が横倒しになっていた。木箱が割れ、薬瓶が石畳に散っている。倒れた馬のそばで、若い兵士が腹を押さえてうずくまっていた。周囲の人々は遠巻きにしている。兵士の制服は、王都のものではなかった。
灰色の外套に、銀の鷹の留め具。北の辺境伯領、アーヴェン家の紋だ。
「動かさないでください」
わたしは駆け寄った。兵士の脇腹から血が滲んでいる。木箱の破片で切ったらしい。傷は深くないが、出血が多い。隣に落ちていた回復薬の瓶は割れており、中身が石畳に広がっていた。淡い青の液体。瓶の底に、濁った沈殿が残っている。
「その薬は使わないで」
近くの男が瓶を拾いかけていた手を止めた。
「だが、回復薬だろう」
「沈殿が出ています。傷口に入れると熱を持ちます」
わたしは鞄から携帯用の小瓶を取り出した。自分のために持ってきた低刺激の止血薬だ。高位ではない。けれど、この傷にはそれで足りる。
「ビアンカ、清布を」
「はい」
兵士は痛みに顔を歪めながらも、こちらを見上げた。
「あんた、医師か」
「錬金術師です。今から止血します。しみますが、焼けるような痛みは出ないはずです」
薬を含ませた布を傷口に当てる。兵士の肩が強張った。けれど、すぐに呼吸が落ち着く。血の流れがゆっくり止まり、皮膚の赤みも広がらない。よかった。薬が効いたことより、効き方が予想通りだったことに安堵した。
「見事だな」
低い声がした。振り向くと、背の高い男性が立っていた。旅塵のついた黒い外套。銀の鷹の留め具。濃い灰色の瞳が、石畳に落ちた割れ瓶を見ている。
「その瓶を見ただけで、使うなと言った」
「沈殿の色が悪かったので」
「普通は、青ければ高位回復薬だと思う」
「青ければ良い薬とは限りません」
男性の口元が、ほんの少しだけ動いた。
「セドリック・アーヴェン。北境を預かっている」
辺境伯本人だった。周囲の人々が慌てて頭を下げる。わたしも膝を折りかけたが、手がまだ兵士の傷口に触れていることを思い出し、浅く頭を下げるだけにした。
「リリアナ・ヴェルネです」
「ローウェル夫人ではなく?」
その名が出た瞬間、心臓が一度だけ強く打った。彼は責めるようには言わなかった。ただ、事実を確かめる声だった。
「本日からは、ヴェルネでお願いします」
「分かった」
セドリック様は、それ以上聞かなかった。代わりに、割れた瓶を拾い上げる。瓶の首には、ローウェル家の封蝋がついていた。
「これは、うちの兵のために王都で買い付けた回復薬だ。北へ戻る途中だった」
わたしは瓶を見た。古い処方に、急いで強化薬を混ぜている。色は高位回復薬に似ているが、濾過が足りない。使えば一時的に傷は塞がるだろう。けれど、体質の弱い人には熱が残る。
「全部、検査した方がいいです」
「頼めるか」
「道具があれば」
「道具は用意する。報酬も払う。名も、君の名で記録する」
その最後の言葉に、思わず顔を上げた。名も、君の名で。たったそれだけの言葉が、今朝押された組合の印より重く感じた。セドリック様は、こちらの驚きを急かさず待っている。兵士は薬布を押さえながら、ほっとした顔で息をついていた。
「君の錬金術は、人を守るための仕事だな」
胸の奥が、熱くなった。舞踏会の広間で冷めたものとは別の熱だった。
「……そうありたいと思っています」
「なら、北へ来るといい。辺境には、腕の良い錬金術師が必要だ。夫の名ではなく、君の名で契約する」
王都の裏通りで、泥のついた靴のまま、わたしは新しい行き先を見つけた。遠くで、ローウェル家の馬車が組合の正面に停まっている。追いかけてくる夫の影はまだ消えない。けれど、わたしの手元には調合記録があり、目の前には救うべき傷がある。
行く理由としては、それで十分だった。
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