第2話 鍵と記録と、持っていくもの
ローウェル家の屋敷に戻ると、玄関ホールにはもう噂が着いていた。舞踏会の馬車は、言葉より速く走らない。それでも王都の貴族社会では、誰かの破綻だけは風より早い。
大理石の床の上で、老執事のハロルドが硬い顔をして待っていた。奥の階段には、侍女たちが二人、身を寄せ合ってこちらを見ている。
「奥様、旦那様からお言づけがございます。工房へは入らず、お部屋でお休みくださいとのことです」
「それは命令ですか」
「……旦那様のご意向でございます」
「では、聞かなかったことにします」
わたしは濡れた外套を脱ぎ、ハロルドへ渡した。彼は動かなかった。家に入った妻が、夫の許可なく工房へ向かうなど考えたこともない、という顔だった。
「奥様」
「ハロルド。あなたは三年前、わたしが嫁いだ日に言いましたね。『この屋敷では、旦那様の研究を最優先になさってください』と」
「申し上げました」
「今夜で終わりです。以後、旦那様の研究は旦那様が最優先になさってください」
長い廊下を進む。突き当たりの扉の前で、わたしは鍵束を開いた。銀の小鍵を差し込むと、馴染んだ音で錠が外れる。工房の中は、夜のままだった。
壁一面の棚には、乾燥させた薬草が紙袋ごと並んでいる。窓際には蒸留器。中央の調合台には、夕方まで使っていた白い陶器の鉢が伏せられていた。小さなランプに火を入れると、硝子瓶の列が淡く光る。この部屋で、わたしは何度も朝を迎えた。
エドガーが宮廷で賞賛される前夜には、必ずこの部屋にいた。失敗したら家の恥だと責められ、成功したら夫の名で発表された。最初は、夫婦なのだから二人の成果だと思おうとした。けれど、二人の成果という言葉は不思議だった。
失敗だけは、いつもわたし一人のものになった。
「奥様……本当に行かれるのですか」
扉のところに立っていた侍女のビアンカが、小さく尋ねた。彼女は嫁入りの時に伯爵家から連れてきた侍女で、夜中にわたしが指を切れば軟膏を持ってきてくれた人だ。目元が赤い。
「ええ。あなたは残っても構いません。ローウェル家の雇用契約がありますから」
「奥様が行くなら、私も参ります」
「簡単に言ってはいけません。行き先も決まっていないのよ」
「それでも、ここに残って旦那様の研究成果を磨くくらいなら、奥様の荷物持ちをした方がましです」
彼女らしい乱暴な忠誠に、少しだけ笑ってしまった。
「では、契約書の写しを持って。あなたの給金未払い分も忘れないで」
「はい」
ビアンカは涙を拭き、すぐに動き出した。わたしは鉄箱を開けた。
調合記録は、年ごとに綴じてある。薬草の産地、採取日、抽出温度、保存状態、患者の体質、失敗理由。エドガーはそれを「細かすぎて読めない」と笑ったが、細かさを捨てたポーションは人を傷つける。わたしは記録を一冊ずつ革袋へ詰めた。
それから、棚の奥から封蝋のついた書類を取り出す。王都錬金師組合への登録証。登録名は、リリアナ・ヴェルネ。結婚前の名だ。
夫はこの書類の存在を知らない。嫁ぐ前、父に内緒で登録した。女性の錬金術師は珍しくはないが、貴族令嬢が個人名で工房登録するのは面倒が多い。それでも、師匠だった老錬金術師が言ったのだ。
「名前だけは、誰にも混ぜるな」
その言葉を、今夜ようやく思い出した。扉の外で足音がした。
「奥様、旦那様から追加のお言づけです。調合記録と保管庫の鍵は、ローウェル家の資産として置いていくようにと」
ハロルドの声だった。わたしは扉を開けた。
「調合記録は、わたし個人の研究記録です。結婚前の登録番号で作成し、材料費の不足分もわたしの私財から出しています。帳簿の写しはあります」
「しかし、旦那様は――」
「それと、保管庫の三番棚にある緑印の瓶を、絶対に宮廷へ出荷しないでください。青晶草の残留魔力が多すぎます。発熱と嘔吐が起きます」
ハロルドは困惑したように瞬いた。
「そのようなことは旦那様に」
「伝えました。三度」
わたしは机の上に、工房の共用鍵だけを置いた。
「主抽出炉の鍵は、炉の登録者しか扱えない契約錠です。登録者はわたしですので、組合で解除手続きをします。それまで無理に開ければ炉が割れます」
「奥様、それでは明朝の納品が」
「できません」
短く答えると、ハロルドの顔色が変わった。これまで、できませんと言ったことはほとんどなかった。無理だと思っても、作る方法を探した。足りない材料を補い、傷んだ器具を直し、夫の名で出る論文の誤字まで直した。
その努力は、夫の才能の一部として扱われた。ならば、今夜からその才能は存在しない。
「それから、ハロルド。旦那様が戻られたら、こちらをお渡しください」
ビアンカが差し出した銀盆に、封筒を置く。離縁状。私物目録。未払い材料費の請求書。そして、工房設備の登録解除通知。ハロルドは、請求書を見た瞬間に喉を鳴らした。
「奥様、これは」
「三年分です。細かいでしょう」
わたしは革袋を肩に掛けた。重い。記録は紙なのに、背負うと三年分の夜の重さがある。
玄関へ向かう途中、壁に掛けられたローウェル家の肖像画が目に入った。結婚した年に描かれたものだ。エドガーは椅子に座り、わたしはその後ろに立っている。画家に言われた構図だった。あの絵の中のわたしは、夫の肩越しにこちらを見ている。
何か言いたそうで、言えない顔をしていた。玄関の扉を開けると、雨はまだ降っていた。ビアンカが小さな旅行鞄を抱えて隣に立つ。御者は困った顔をしていたが、わたしが前払いの銀貨を渡すと黙って馬車を出した。
「奥様、どちらへ」
御者に聞かれて、わたしは一度だけ迷った。伯爵家へ戻れば、父はまず世間体を気にするだろう。王都の宿に泊まれば、明朝にはエドガーが人を寄越す。組合に駆け込むには、夜が遅すぎる。それでも、行く先がないわけではなかった。
「王都南門の宿まで。朝になったら、錬金師組合へ向かいます」
馬車が走り出した。窓の外で、ローウェル家の灯が遠ざかる。胸が痛むかと思ったが、不思議なほど静かだった。膝の上の革袋に、手を置く。鍵と記録。持っていくものは少ない。けれど、わたしの名前を入れるには、それで十分だった。




