第1話 妻も、あなたの才能を作る役目も辞めます
王宮の舞踏会は、春の花よりも人の視線が多い場所だった。高い天井から吊られた水晶灯が、金糸の刺繍をきらきらと照らしている。楽団の弦は途切れることなく流れ、香油を含ませた花飾りの匂いが、磨き上げられた床の上に薄く広がっていた。
その中心で、夫は別の女性の手を取っていた。
「リリアナ、今夜は少し離れていてくれ。コレット嬢が初めて王宮の舞踏会に出るんだ。君のように地味な者が隣に立つと、彼女が緊張してしまう」
エドガー・ローウェル子爵。結婚して三年になる、わたしの夫だった。
彼の腕に寄り添っているのは、ダリアス子爵家の令嬢コレット様だ。薔薇色のドレスに、宝石を散らした髪飾り。彼女は気まずそうに一瞬だけこちらを見たけれど、すぐに笑みを作り直して、エドガーの袖を軽く掴んだ。
周囲の貴族たちは、扇の陰で小さく笑っている。地味で重い妻。夫の研究を理解できず、家に閉じこもっているだけの女。そう呼ばれていることは知っていた。耳に入らないふりをしてきただけだ。
「承知しました」
わたしが答えると、エドガーは満足そうに顎を上げた。
「分かればいい。ああ、そうだ。帰ったら例の高位回復薬を二百本、明朝までに仕上げておくように。宮廷錬金局から急ぎの依頼が来ている。発表は明日の午餐会だ。僕の名で出す」
彼はそれを、砂糖菓子を勧めるような軽さで言った。高位回復薬二百本。通常なら、熟練の錬金術師が三人で十日かける量だ。今夜のうちに仕上げるには、すでに下処理した抽出液を使い、夜通しで濾過と安定化を繰り返す必要がある。
わたしの両手は、先週の調合でまだ少し荒れていた。手袋の下で、指先のひびが布に引っかかる。
「エドガー様、二百本は無理です。昨日納めた分の再検査も終わっておりません。青晶草の品質が落ちていますから、せめて――」
「また言い訳か」
夫の声が、わずかに大きくなった。近くにいた貴族がこちらを向く。楽団の音が急に遠くなった気がした。
「君は本当に、場を読むことを知らない。宮廷は僕の新作を待っているんだ。君が細かい記録にこだわって遅らせるから、僕がどれだけ苦労していると思っている」
わたしは口を閉じた。言い返したいことは、いくつもあった。
新作と呼ばれた処方は、わたしが夜明けまで試験して作ったものだ。魔力の弱い兵士でも副作用が出ないように、体質別の希釈表まで添えた。失敗品を混ぜず、廃棄量も記録し、瓶の底に残る沈殿の色を一つずつ確かめた。
けれど、宮廷でその名を呼ばれるのはいつも夫だった。
「ローウェル卿は素晴らしい」
「若くして宮廷錬金術の柱だ」
「奥方は幸せですね。あれほど優秀な夫を持てて」
そう言われるたび、わたしは曖昧に笑った。夫の名誉は家の名誉で、妻が支えるのは当然だと、母にも姑にも言われてきたからだ。今夜までは。
「リリアナ様」
コレット様が、柔らかな声で言った。
「エドガー様は本当にお忙しいのです。奥様なら、支えて差し上げるべきではありませんか。愛する人の夢を応援するのは、妻の喜びでしょう?」
それは、悪意だけではなかったのかもしれない。彼女はきっと、夫が語った物語を信じている。天才錬金術師の夫と、仕事を手伝うだけの地味な妻。その物語の中では、わたしが疲れていることも、わたしの筆跡で埋まった調合記録も、都合よく見えない。
愛する人の夢。わたしはその言葉を、心の中でゆっくり繰り返した。胸が痛むと思っていた。嫉妬で手が震え、涙が出ると思っていた。
けれど実際には、何かが静かに冷めていくだけだった。長いこと火にかけていた鍋を、ようやく火から下ろしたような感覚だった。
「エドガー様」
「なんだ。今度は謝罪か」
「いいえ」
わたしは手袋を外した。ひび割れた指を見られるのは嫌だった。けれど、今日だけは隠したくなかった。
「明朝までの高位回復薬二百本は、作りません」
空気が止まった。エドガーの眉が、ゆっくりと吊り上がる。
「……何を言っている」
「あなたのためには、もう作りません」
わたしは、ドレスの内ポケットから小さな鍵束を取り出した。ローウェル家の工房の鍵。主抽出炉の鍵。保管庫の鍵。そして、調合記録を納めた鉄箱の鍵。どれも、わたしの夜を閉じ込めてきた鍵だった。
「工房の鍵は、後ほど屋敷の執事に返します。調合記録は、わたし個人の研究記録ですので持っていきます。離縁状はすでに用意してあります」
「離縁状?」
「はい」
エドガーは一瞬、理解できないような顔をした。そのあと、周囲の視線を思い出したのだろう。笑い飛ばそうとして、うまく笑えずに唇を歪めた。
「馬鹿なことを言うな。妻が夫の仕事を手伝うのは当然だ。君の作ったものはローウェル家のものだ。つまり、僕のものだ」
昔のわたしなら、そこで怯んだ。家のもの。妻の務め。夫の名誉。その言葉に、何度も自分の名前を消してきた。けれど、今夜の水晶灯は明るすぎた。夫の腕にある薔薇色のリボンも、扇の陰で笑う口元も、わたしの指の傷も、全部がはっきり見える。
「でしたら、ローウェル家のものだけで宮廷に納めてください。わたしは、妻を辞めます。あなたの才能を作る役目も、今夜で辞めます」
「リリアナ!」
夫が手を伸ばした。わたしは一歩退いた。たった一歩なのに、床の冷たさが靴底から伝わった。
「今後、あなたのためにポーションも魔導具も作りません」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。楽団が演奏を止める。誰かが息を呑む。コレット様の指が、エドガーの袖から離れた。わたしは膝を折って、王宮の礼をした。
「では、失礼いたします」
背を向けると、夫が何かを叫んだ。内容までは聞かなかった。舞踏会の広間を出た廊下は、驚くほど静かだった。窓の外には春の夜雨が降っている。濡れた庭石の匂いが、少しだけ冷たい風に混じっていた。わたしは深く息を吸った。
泣くのは、たぶん馬車に乗ってからでいい。今はまず、工房から自分の名前を取り戻さなければならなかった。




