第38話 王都講堂の壇上
王都の講堂は、以前わたしが見た舞踏会場とは違っていた。飾りは少なく、机が整然と並び、壁には薬剤規格改革班の掲示がある。とはいえ、王都の人々の視線はやはり重い。壇上に上がる前、わたしは手袋を外し、指輪を小箱に入れた。
作業の時と同じ手順だ。緊張している時ほど、いつもの手順に戻る。セドリック様は客席の後方にいた。目立たない位置だが、こちらを見ている。マリウスは資料配布を手伝い、ノラは焦げた鍋を抱えている。彼女の顔は固いが、足は逃げていない。
講習が始まった。わたしはまず、青雫の霊薬の失敗を話さなかった。代わりに、東門の革職人の苦情から始めた。
「疲労回復薬が効きすぎて眠れない、という苦情がありました。薬の成分に問題はありませんでした。問題は、説明札が小さかったことです」
講堂の空気が少し変わる。大事件ではない。だが、誰でも起こし得る失敗だ。
「薬剤の安全は、配合だけで決まりません。使う時間、食事、読める文字、渡す場所。そこまで含めて、薬の仕事です」
次に、焦げた鍋を出した。ノラが壇上へ上がり、鍋を置く。視線が彼女に集まる。わたしは言った。
「これは星濾工房で廃棄した喉薬の鍋です。作業者はノラ。検品者はわたし。原因は火加減と申告遅れ。対策は、作業停止札と申告先の複数化」
ノラは小さく息を吸い、自分で続けた。
「忙しい人に言いにくい、と思ったことが失敗でした。だから、言う先を増やしました」
講堂にざわめきが起きた。見習いの失敗を、本人の名前で出すことに驚いたのだろう。
「名前を出すのは、責めるためではありません。改善を誰の手に戻すかを明らかにするためです」
わたしは講堂を見渡した。
「人は失敗します。失敗しない職人はいません。だから、失敗が人に届く前に止める仕組みを作ります」
その後、灰冠熱の記録、凍傷札、基金帳、移動工房馬車の図面を順に説明した。予定時間は少し超えた。それでも、誰も席を立たなかった。質疑では、若い錬金術師が手を挙げた。
「失敗記録を公開すると、工房の信用が落ちるのでは」
「隠して人に届いた失敗のほうが、信用を壊します」
答えると、彼は深く頷いた。壇上から降りた時、ノラが小さく言った。
「足、震えました」
「わたしもです」
「先生も?」
「もちろん」
震えても、話せる。それを王都の講堂で確かめた日だった。
◇
講習一日目が終わったあと、講堂の裏廊下で若い女性に呼び止められた。年は十七か十八ほどだろう。上質な外套を着ているが、袖口に薬草の粉が付いている。
「星濾工房主様」
「はい」
彼女は周囲を見て、声を落とした。
「わたし、婚約者の工房を手伝っています。処方はわたしが作っているのですが、発表は彼の名で出ています」
胸の奥が、冷たくなった。過去と同じ形が、別の場所にある。彼女は急いで言った。
「でも、彼は悪い人ではありません。家の都合で、男の名のほうが通りやすいからと」
昔のわたしも、似た言葉で自分を納得させた。悪い人ではない。家の都合だから。今だけだから。そう言っているうちに、名前は消える。わたしは彼女を控室に招いた。ノラとビアンカにも同席してもらう。
「まず、あなたの処方記録はありますか」
「あります。自分の控えだけですが」
「それを守ってください。原本を渡す時は写しを取り、日付を入れる。共同研究なら、共同研究として署名を求める」
「婚約者に疑っていると思われませんか」
「疑いではなく、責任の分け方です」
彼女は唇を噛んだ。
「もし、嫌がられたら」
「嫌がる理由を聞いてください。あなたの名前が載ると困るなら、その困りごとはあなたのものではありません」
言葉は少し強かったかもしれない。しかし、曖昧にすれば彼女の時間が削られる。ビアンカが、共同記録の簡易書式を渡した。
「王都の相談窓口もあります。今日の講習資料に載せました。家だけで抱えないでください」
ノラは焦げた鍋の包みを抱えたまま言った。
「言いにくいことは、言い先を増やしたほうがいいです」
自分の経験から出た言葉だった。若い女性は、少しだけ笑った。
「見習いさんですか」
「工房員です」
ノラが即答した。わたしはその横顔を見て、頼もしく思った。女性は最後に深く頭を下げた。
「今日、来てよかったです」
「あなたの仕事を、あなたの名から離さないでください」
彼女が去ったあと、しばらく廊下に立っていた。わたし一人の物語が終わっても、同じ構造は残っている。だから、講習が必要なのだ。名前を奪われる前に、記録を持つ人が増えるように。王都の裏廊下にも、星濾工房の仕事は届いていた。
◇
講習二日目には、入口に質問箱を置いた。名前を出して質問できない人のためだ。午前の講義が始まる前から、箱には紙が入っていた。字の整ったもの、急いで書いたもの、震えた線のもの。最初の質問は、こうだった。
『上司が失敗品を混ぜてもよいと言った場合、見習いはどうすればよいですか』
講堂が静かになった。わたしは紙を読み上げ、少し間を置いた。
「まず、混ぜてはいけません。次に、記録を残してください。日時、品名、指示した人、見た状態。可能なら別の検品者に相談する。工房内に相談先がなければ、組合や規格改革班へ」
そこで、マリウスが前に出た。
「王都では、改革班に通報窓口を設けました。匿名でも受けます。地方工房からの連絡も同じです」
彼の声は、以前よりはっきりしていた。次の質問は、利益についてだった。
『廃棄すれば赤字になります。赤字で工房が潰れたら、誰も薬を作れません』
これは現実的な質問だ。
「廃棄の負担を一人の職人だけに置かない仕組みが必要です。だから保険、基金、共同仕入れ、廃棄報告への補助が必要になります。安全は気合いだけでは続きません」
ビアンカが、青星基金と廃棄補助の資料を配った。王都の商人たちが真剣に見る。最後の質問は、少し個人的だった。
『自分の名で仕事をしたいと言うと、家族がわがままだと言います。どうすればよいですか』
紙を持つ指が、少し止まった。わたしは講堂の奥を見る。どこかに、書いた人がいる。
「わがままかどうかを、まず仕事の条件に分けてください。記録に名を残したい。報酬の配分を明確にしたい。失敗時の責任を共有したい。これらは、わがままではなく、仕事の条件です」
声が、少し低くなる。
「それでも家族が認めないなら、外の相談先を持ってください。家の中だけで判断されると、あなたの仕事は家の都合に消えます」
講堂の後ろで、誰かが小さく泣いたような音がした。わたしは話を続けた。
「自分の名で仕事をすることは、誰かを傷つけるためではありません。責任を持って人を守るためです」
講習が終わった時、拍手は長かった。華やかな拍手ではない。考えながら叩くような、少し重い拍手だった。それでよかった。帰り際、質問箱の底に小さな紙が一枚残っていた。
『名前を書いてみます』
それだけだった。わたしはその紙を、講習記録の最後に挟んだ。誰かの最初の一歩を、見えないままでも残しておきたかった。




