第37話 初めての共同食卓
婚姻式の翌朝、領主館の食堂で初めて二人だけの朝食を取った。広い食堂は落ち着かないので、小さな南向きの部屋を選んでもらった。窓辺には冬の光が入り、卓上には温かい粥と焼いたパン、果物の煮物が並んでいる。
わたしは、皿の数を見て少し身構えた。ローウェル家では、食事も緊張の場だった。夫の機嫌、同席者の視線、言ってはいけない話題。食べるより、間違えないことに気を使っていた。セドリック様は向かいに座り、何も急かさなかった。
「今日の予定は」
「工房へは行きません」
自分で言ってから、少し誇らしかった。休業表を守っている。
「偉いな」
「子ども扱いですか」
「いや、かなり大きな達成だと思っている」
否定しきれない。わたしは粥を一口食べた。薄い塩味で、胃にやさしい。
「美味しいです」
「厨房に伝える」
「はい」
それだけの会話でいいのだと、少しずつ体が理解していく。食事中に仕事の話をしてもいい。しなくてもいい。沈黙しても、怒られない。途中で、セドリック様が小さな箱を出した。
「指輪の保管箱だ。工房用にもう一つ作らせた」
中には柔らかい布が敷かれ、小さな仕切りがある。作業前に指輪を外し、なくさず置けるようになっていた。
「ありがとうございます」
「本当は、指輪を外さなくていい形も考えたが、薬剤に触れるなら外すほうが安全だと聞いた」
「はい。金属に薬液が残ることもありますし、手袋が引っかかることもあります」
「なら、安全を優先する」
結婚したから指輪を常につけるべきだ、とは言わない。それだけで、食事の温度が少し上がるような気がした。食後、二人で領主館の中を歩いた。
わたしの部屋には、工房の資料を置ける棚が用意されている。ただし、寝室とは別だ。休む場所に記録を持ち込みすぎないよう、ビアンカとセドリック様が相談して決めたらしい。
「わたし抜きで相談しましたね」
「君の休息に関わることだから、相談すべきだったか」
「いえ。これは贈り物として受け取ります。でも、次から棚を増やす時は相談してください」
「分かった」
すぐに答える。それが心地よかった。昼前、工房から小さな札が届いた。ノラの字で、『工房は無事です。棚にも触っていません。先生も触らないでください』とある。わたしは笑ってしまった。工房が無事で、わたしも休める。
その両方が、初めて同じ朝に並んだ。共同の暮らしは、こういう小さな確認から始まるのだと思った。
◇
婚姻式から十日ほど経った頃、宮廷錬金術局から正式な依頼が届いた。王都で開かれる薬剤規格公開講習に、星濾工房主として講師に来てほしいという内容だった。
依頼書には、材料表示、失敗品廃棄、使用者説明、地方工房との連携について話してほしいとある。以前なら、王都に呼ばれるだけで胸が重くなった。あの場所には、夫の功績にされた発表台があり、わたしの名前を聞かなかった人たちがいる。
けれど、今の依頼書には、わたしの名が最初から書かれている。リリアナ・ヴェルネ・アーヴェン。星濾工房主。わたしは工房の机で依頼書を読み、相談記録を開いた。
「受けるのですか」
ノラが聞く。
「条件次第です」
「条件」
「講習の資料に、工房員の名を載せること。講習内容の写しを地方工房にも配ること。わたし一人の美談にしないこと」
マリウスが頷いた。
「王都は、美談にすると満足してしまう癖があります」
「癖を直しましょう」
ビアンカは日程表を見ていた。
「行くなら、工房の主担当を決める必要があります。ノラさんが喉薬、マリウスさんが規格対応、テオさんは札と受付補助。緊急時は東門診療所へ」
ノラの顔が少し強張った。
「先生がいない間、主担当」
「不安ですか」
「不安です」
「では、不安も記録します」
相談記録に、ノラの不安を書いた。失敗時の判断。患者説明。注文を断る基準。書き出すと、訓練できるものと、仕組みで補えるものに分かれていく。
「全部を勇気で乗り切らなくていいです」
わたしは言った。
「規定と相談先を使ってください」
ノラは少し息を吐いた。
「先生、王都へ行って大丈夫ですか」
「わたしですか」
「嫌な場所でしょう」
素直な心配だった。わたしは依頼書を見た。王都は嫌な記憶のある場所だ。でも、嫌な場所のまま放っておくと、そこではまた同じことが起きるかもしれない。
「大丈夫とは言いきれません。けれど、行く理由はあります」
その日のうちに、条件を書いた返書を出した。講習は、わたしの名を飾る場所ではない。記録を広げる場所にする。返事を書き終えると、セドリック様が言った。
「同行する」
「領主としてですか、夫としてですか」
「護衛と相談相手として。講師は君だ」
わたしは頷いた。王都へ戻る。今度は、誰かの影としてではなく。
◇
宮廷錬金術局からの返答は、予想より早かった。こちらの条件をすべて承諾する、というものだった。ただし、紙の余白に小さな追記がある。
『講習時間が長くなるため、王都側は二日に分けることを提案する』
わたしは少し笑った。
「こちらの条件を削るのではなく、時間を増やしましたね」
マリウスが胸を張った。
「規格改革班で押しました。美談にしないこと、地方配布をすること、工房員の名を載せること。全部必要だと」
「ありがとうございます」
「まだ通しただけです。実際の講習で形にしないと」
彼はもう、王都から来た遠慮がちな研修生ではなかった。星濾工房での研修が終われば、王都へ戻る。けれど、戻る先に持っていくものが増えている。講習資料の作成は、工房全員で行った。ノラは失敗申告の章を担当した。
『焦げた匂いを感じたら、忙しそうでも言う』
その一文は、彼女自身が書いた。テオは説明札の絵を担当した。凍傷、喉薬、疲労回復薬。字が読めない人にも伝わるよう、線は太く、表情は怖すぎない。ビアンカは運用規定の章を整えた。
善意の基金をどう監査するか。休業日の緊急対応をどう分けるか。工房主に判断を集中させない方法。わたし一人では作れない資料になった。表紙には、名前を並べた。星濾工房主リリアナ・ヴェルネ・アーヴェン。工房員ノラ。記録補助テオ。
業務管理ビアンカ。研修錬金術師マリウス・セイム。関係診療所、東門診療所。地方の山村、牧場、革職人の苦情記録。人の名が並ぶと、資料は少し重くなる。それは、良い重さだった。王都へ出発する前日、ノラが講習用の焦げた鍋を包んでいた。
「これ、王都で見せるんですよね」
「嫌ですか」
「少し。でも、見せます」
「名前を伏せることもできます」
「いいえ。私の失敗です。私の改善です」
そう言えるようになった彼女を見て、胸が熱くなった。失敗を記録することは、恥を固定することではない。成長の場所を示すことだ。夜、資料箱を閉じる。中には、焦げた鍋、凍傷札、基金帳の写し、移動工房馬車の図面が入っている。
王都の講堂で、これらは華やかに見えないかもしれない。けれど、実際に人を守ってきたものばかりだ。わたしは、そういうものを持って行く。




