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夫の功績にされていた天才錬金術師ですが、妻を辞めたのでポーションも魔導具も作りません  作者: 小竹X


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第36話 婚姻式前夜

婚姻式の前日、工房は本当に休みになった。入口には、テオの描いた星と花の掲示が貼られている。緊急薬は東門診療所へ移し、ノラとマリウスが最終確認を済ませた。わたしは工房の中に立ち、何もすることがない状態に戸惑っていた。


「先生」


 ビアンカが背後から声をかける。


「薬草棚に近づかない約束です」


「見ているだけです」


「近づいています」


 わたしは二歩下がった。休むのは難しい。仕事をしていないと、昔の記憶が入り込む。ローウェル家の婚姻式の前日、わたしは新しい家の作法を覚え、夫の機嫌を損ねない返事を練習していた。嬉しいより、不安が大きかった。明日は違うはずだ。


 それでも体は、式という言葉に少し硬くなる。夕方、ノラが小さな包みを渡してくれた。


「工房員一同からです」


 中には、白い手袋が入っていた。布は柔らかく、手首に青い星が刺繍されている。指先は、少しだけ薄い。式の後、薬瓶を持っても感触が分かるように作られていた。


「式用なのか、作業用なのか」


「両方です」


 ノラは胸を張る。


「先生は、どっちかだけの人じゃないので」


 胸の奥が熱くなった。


「ありがとう」


「泣くなら今です。明日は化粧が大変です」


「ノラ」


「ビアンカさんが言ってました」


 ビアンカは視線を逸らした。夜は、領主館ではなく、工房の二階で過ごすことにした。婚姻式の前夜に工房で寝る花嫁は珍しいと言われたが、わたしにはここが落ち着く。棚の匂い、乾いた薬草、洗った瓶の音の記憶。どれも、今のわたしを作ったものだ。


 机の上には、古い薬箱と、新しい婚姻契約書の写しがある。十歳の処方箋。離縁状。工房契約。婚姻契約。紙ばかりだ。けれど、紙に残したから、わたしは何度も自分の場所を確かめられた。窓の外に、領主館の灯りが見える。


 明日、わたしはセドリック様と婚姻を結ぶ。でも、誰かの家に吸い込まれるのではない。二つの場所を持ったまま、隣に立つ。白い手袋を枕元に置き、明かりを消した。不安は少しある。けれど、逃げたい不安ではなかった。


 明日の朝へ進むための、静かな緊張だった。


 ◇


婚姻式の日、空はよく晴れていた。雪は残っているが、陽の当たる道は少し溶けている。領主館へ向かう馬車の窓から、町の人たちが手を振るのが見えた。わたしは淡い青の礼服に、ノラたちがくれた白い手袋をつけていた。手首の星が、小さく光る。


 控え室で、父と母に会った。父は緊張した顔をしている。母は、わたしの手袋を見て微笑んだ。


「綺麗ね」


「工房員が作ってくれました」


「あなたの手を、よく知っている人たちなのね」


 母の声は震えていた。以前の母なら、家の名や式の格式を先に見ただろう。今日は、手を見ている。それだけで十分ではない。でも、一歩ではある。式は、領主館の大広間で行われた。


 王都の礼式より簡素で、町の代表や騎士団、工房員たちが見守っている。ノラは泣かないと言っていたのに、始まる前から目を赤くしていた。セドリック様は、正面でわたしを待っていた。深い紺の礼装。胸元には、星の留め具。


 司祭が誓約文を読み上げる。互いの健康を守ること。財産と仕事の権利を尊重すること。困難の時に相談を省略しないこと。最後の一文で、会場の何人かが少し笑った。わたしも笑いそうになった。でも、その一文は大切だった。


 セドリック様が、わたしの手を取る。白い手袋越しでも、手の温かさが分かる。


「リリアナ・ヴェルネ。君の仕事を、君の名と共に尊ぶ。夫として、その名を隠さず、奪わず、急がせず、共に守ると誓う」


 静かな声だった。大げさではない。だからこそ、よく届いた。わたしは息を整えた。


「セドリック・アーヴェン。あなたの責務を軽んじず、あなたの不安を支配と決めつけず、必要な時は言葉と記録で共に整えると誓います」


 少し硬い誓いだ。けれど、わたしたちらしい。指輪の交換の時、わたしは一瞬だけ昔の婚姻式を思い出した。あの時は、指輪が重かった。今日は違う。


 新しい指輪は細く、作業の時には外せるよう内側に小さな留め溝がある。工房で安全に保管できる小箱も用意されていた。式の終わりに、司祭が告げた。


「リリアナ・ヴェルネ・アーヴェン」


 新しい名が、広間に響く。けれど、消えた名はなかった。ヴェルネも、星濾工房も、ここにある。拍手の中で、ノラがとうとう泣いた。テオは必死に拍手をしている。ビアンカは背筋を伸ばしたまま、目元だけを拭っていた。


 わたしはセドリック様の隣に立ち、白い手袋の星を見た。妻になる。でも、もう誰かの功績を作るための妻ではない。自分の名で働くまま、隣に立つ妻になる。


 ◇


婚姻式の後、領主館の広間では小さな宴が開かれた。小さな、と言っても、町の代表が集まるには十分な広さだ。料理は温かく、酒は控えめで、医師が「冬場に飲みすぎるな」と札まで置いていた。


 セドリック様の指示ではなく、診療所の自主的な札らしい。わたしは少し笑った。宴の途中、王都から来た貴族の一人が近づいてきた。名は覚えている。以前、舞踏会でエドガーの発表を褒めていた人だ。


「アーヴェン夫人、これで星濾工房も安泰ですな。辺境伯家の後ろ盾があれば、王都の工房など敵ではないでしょう」


 言葉そのものは祝いの形をしている。だが、工房をわたしから切り離し、家の力に置き換える響きがあった。わたしが答える前に、セドリック様が一歩横に立った。助け船ではない。隣に立つための一歩だった。


「星濾工房は、彼女と工房員の仕事で成り立っている。俺の家の飾りではない」


 貴族は少し笑顔を硬くした。


「もちろん、そのような意味では」


「そして、彼女はアーヴェン夫人である前に、工房主だ。呼び方を選ぶ場では、それを忘れないでほしい」


 広間が静かになった。強い言葉ではある。でも、わたしの言葉を奪うものではなかった。わたしは続けた。


「祝いの言葉は受け取ります。ですが、工房の安泰は後ろ盾だけで決まりません。日々の記録と検品と、必要な時に止める勇気で決まります」


 貴族は頭を下げた。


「失礼しました、工房主殿」


「ありがとうございます」


 そのやりとりを、ノラたちが遠くから見ていた。あとで何か言われるだろう。宴の終わり近く、セドリック様と二人で少しだけ庭に出た。冷たい空気が頬に触れる。


「先ほど、口を出しすぎたか」


「いいえ。隣に立っていました」


「ならよかった」


「わたしも、言いたいことを言えました」


 彼は安心したように頷いた。庭の木には、雪が薄く積もっている。灯りに照らされて、白い花のように見えた。


「共同者、という言葉を式辞に入れようか迷った」


 セドリック様が言う。


「入れなかったのですか」


「誓約文が長くなりすぎると、司祭が困る」


「もう十分長かったと思います」


「そうだな」


 少し笑い合う。夫という言葉は、昔わたしを縛った。けれど、言葉そのものに罪はない。夫であり、領主であり、共同者である人がいる。その関係を、これから日々の言動で作っていく。庭から広間へ戻る前、彼がわたしの手袋の星に触れた。


「よく似合っている」


「工房員が、わたしの手をよく知っているので」


「俺も、もっと知る」


 静かな言葉に、胸が温かくなった。仕事の手。暮らしの手。その両方を見てもらえるなら、妻という名も怖くない。

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