第35話 値段を下げるだけでは届かない
基金が始まると、すぐに別の問題が見えた。薬を安くすれば良い、という話ではなかった。町の外れに住む人ほど、工房へ来る時間がない。日雇いの人は、昼に薬を受け取りに来れば、その日の賃金を失う。子どもを抱える母親は、長い列に並べない。
わたしは来客記録を見ながら、何度も同じ名前が途中で消えていることに気づいた。予約を入れたのに来ない。薬が必要なはずなのに、受け取りに来ない。ノラが言った。
「値段が下がっても、取りに来られない人がいるんですね」
「そうです。薬の瓶が棚にあっても、手に届かなければ意味がありません」
そこで、夕方受け取りの窓口を作ることにした。ただし、工房員を長く残すわけにはいかない。休息を削れば、また別の危険が生まれる。ビアンカが提案した。
「週に二日だけ、夕方窓口を東門診療所に移しましょう。工房から完成薬を運び、受け渡しは診療所の受付が行う。使用説明が必要な薬だけ、工房員が交代で同行します」
「工房で全部抱えない形ですね」
「はい。抱えない形です」
良い仕組みは、誰か一人の善意に頼らない。夕方窓口の初日、東門診療所にはいつもと違う人たちが来た。仕事帰りの荷運び人。小さな子を背負った母親。片足を引きずる老人。皆、工房へ来るには遠い人たちだった。
わたしは使い方の説明をし、診療所の受付に記録の書き方を伝えた。荷運び人が、疲労回復薬の瓶を手に聞く。
「これ、夜に飲んじゃ駄目なんだよな。赤い札がある」
以前の苦情から直した札だ。
「はい。朝か昼にしてください。今夜は飲まないで、食事と睡眠を優先してください」
「薬屋が睡眠を売るのか」
「睡眠は無料ですが、忘れられがちです」
彼は笑い、瓶をしまった。診療所から戻る頃には、空が暗くなっていた。工房ではノラが片付けを終え、温かい茶を用意してくれていた。
「お疲れさまでした」
「ありがとう」
「どうでした」
「薬を作る場所と、薬を渡す場所は、同じでなくてもいいと分かりました」
ノラは頷く。
「じゃあ、工房が少し広がったんですね」
「ええ。壁を壊さずに」
星濾工房は、一つの建物だけでは足りなくなっている。けれど、大きくなるとは、看板を増やすことだけではない。必要な場所に、必要な形で届くこと。それも、工房の成長だった。
◇
移動工房馬車の初運行日は、薄い曇りだった。馬車の側面には、小さな星印と『星濾工房・冬季巡回』の文字がある。派手ではないが、雪道でも見つけやすい。積み込む品は、凍傷軟膏、喉薬、包帯、廃棄箱、記録板、温度布、説明札。炉はない。
火を使わないことが、この馬車の規則だ。ノラが棚を確認する。
「瓶止め、全部閉めました」
テオが札を読む。
「廃棄箱、空です。替えの布、二十枚」
マリウスが運行記録を開いた。
「出発時刻、天候、同行者、積載品。すべて記入しました」
わたしは最後に、作業停止札を入口に掛けた。馬車の中でも、疑問があれば止められるように。セドリック様は護衛の距離を確認し、わたしのほうを見た。
「相談通りに配置する」
「はい」
その一言だけで、以前よりずっと安心できた。最初の巡回先は、東の牧場だった。冬場は家畜の世話で手が荒れ、ひび割れから感染する人が多い。牧場主の妻は、手を隠すようにしていた。
「こんなので呼んでいいのか、迷って」
「手は仕事道具です。悪くなる前に見せてください」
移動工房の折り畳み机を出し、手を洗う桶を置く。馬車の中は狭いが、棚の位置は使いやすかった。ひび割れには、保湿軟膏と布手袋の併用が必要だ。薬だけ塗っても、水仕事で流れてしまう。わたしは説明札に、夜の手順を書いた。
「寝る前に塗り、布手袋をしてください。朝は薄く。傷が膿むなら診療所へ」
牧場の子どもたちは、馬車の星印を触りたがった。テオが笑って止める。
「ここは触ってもいいです。でも、瓶棚は駄目です」
彼はすっかり案内係になっていた。午後には二つ目の村へ向かう。道は揺れたが、瓶は割れなかった。斜めの押さえ板が効いている。戻ってから、馬車の中で使いにくかった点を記録した。
椅子が低い。雨の日の泥落としが足りない。説明札を掛ける紐が短い。完璧な初運行ではない。だからこそ、次に良くできる。夜、工房の前で馬車を拭いていると、ノラが言った。
「今日、先生一人で全部やってませんでした」
「そうですね」
「少し前なら、全部やってました」
「耳が痛いです」
でも、嬉しい痛みだった。馬車の車輪には、まだ雪泥が残っている。星濾工房は、棚の外へ出ても、工房でいられる。その最初の日だった。
◇
移動工房馬車が評判になると、すぐに要望も増えた。村で薬をその場で作ってほしい。温かい煎じ薬を出してほしい。小さな炉くらい載せられないか。どれも、気持ちは分かる。遠い村では、温かい薬がその場で出るだけで安心できるだろう。
だが、わたしは火を載せないと決めていた。商人組合の会議で、その理由を説明することになった。組合長は少し不満そうだった。
「需要があるなら、応えるのが商売では」
「需要に応えるために、危険を増やすのは違います」
わたしは馬車の図面を広げた。
「この馬車は揺れます。雪道では止まり方も読めません。火を使えば、薬液の温度管理が不安定になります。煤も入ります。患者が近くにいる狭い空間で、火傷の危険もあります」
「しかし、その場で作れば早い」
「早く見えるだけです。安全確認に時間を使えなくなるなら、早いとは言えません」
会議室の空気が少し固くなった。以前なら、こういう場で強く言うのは苦手だった。けれど今は、譲ってはいけない線が分かる。セドリック様は横で黙っている。口を出さない約束だからだ。それがありがたかった。わたしは続けた。
「代わりに、保温箱を改良します。工房で安全に作った薬を、温度を保って届ける。現地では患者の状態確認と説明に時間を使う。そのほうが、馬車の役割に合っています」
マリウスが、保温箱の試験結果を出した。六時間後の温度、揺れによる漏れ、蓋の開閉回数。数字が並ぶと、反論は少し減った。組合長は資料を読み、やがて頷いた。
「つまり、馬車は小さな工房ではなく、工房の手を伸ばすものだと」
「はい。火を載せないことが、この馬車の安全です」
会議の後、セドリック様が廊下で言った。
「助け船を出したくなった」
「出さなかったですね」
「出すなと言われていたからな」
「ありがとうございます」
「君が自分で説明するほうが、強い」
その言葉に、少しだけ頬が熱くなった。強い、というのは大声を出すことではない。根拠を持ち、譲らず、代わりの方法を示すこと。工房へ戻ると、ノラが新しい保温箱の布を縫っていた。
「会議、どうでした」
「火は載せません」
「よかったです。馬車で鍋を煮るの、怖かったので」
「言ってください」
「先生が言うと思って」
「それでも、言ってください」
相談記録の出番だ。小さな不安も、早く紙に出したほうがいい。火を載せない馬車は、派手さとは無縁だ。けれど、安全な理由を持っている。わたしは、そういう道具が好きだった。




