第34話 婚姻式の準備表
婚姻式の準備表は、思ったより分厚くなった。衣装、招待状、領民への告知、王都への報告、工房の休業日、緊急薬の備蓄、移動工房馬車の運行停止日。最後の二つが入っている時点で、普通の婚姻式ではないのだろう。ビアンカは淡々と表を読み上げた。
「式の前日と当日は、工房を休みにします」
「前日もですか」
「前日もです」
「午前だけ開けるのは」
「駄目です」
即答だった。ノラも腕を組む。
「先生、花嫁が式の前日に喉薬を煮ていたら、町中が心配します」
「喉薬は煮ないとして、記録整理なら」
「それも仕事です」
反論できない。仕事を休むことは、まだ少し怖い。わたしが休んでいる間に何か起きたら。注文が滞ったら。誰かが困ったら。そんな考えを、ビアンカは見透かしたように言った。
「緊急対応表を作れば、休めます。休めないのは、準備が足りない時です」
「準備があれば休んでいい、ではなく、休むために準備するのですね」
「はい」
それは新しい考え方だった。午後、工房員全員で緊急対応表を作った。発熱、凍傷、喉痛、怪我、薬の交換、注文受付。どこまでノラが判断し、どこから医師へ回し、どこで領主館へ連絡するか。休む日の表なのに、仕事の仕組みがよく見える。
テオが、休業掲示の下書きをした。
『星濾工房は婚姻式のため二日休みます。緊急薬は東門診療所に置きます』
その下に、小さな星と花の絵がある。
「花は要りますか」
「婚姻式ですから」
テオは真面目に答えた。夕方、セドリック様が衣装合わせの確認に来た。わたしは準備表を見せる。
「休業日が決まりました」
「二日か」
「はい。前日も休めと言われました」
「良い工房員だ」
「皆、わたしに厳しくなっています」
「それだけ大事にされている」
その言葉に、すぐ返事ができなかった。大事にされることは、時々くすぐったい。命令されることとも、囲い込まれることとも違う。休んでほしいと言われるのは、わたしの手が必要だからだけではなく、わたし自身を気にしてくれているからだ。
準備表の最後に、自分で一行足した。
『式前日は、薬草棚に触らない』
ノラが覗き込み、満足そうに頷いた。
「署名してください」
「そこまで」
「そこまでです」
わたしは仕方なく署名した。リリアナ・ヴェルネ。もうすぐ、アーヴェンの名も加わる。けれど、工房主の署名は変わらない。そのことを、準備表の紙が静かに証明していた。
◇
王都のコレットから、分厚い検品帳が届いた。かつて舞踏会でエドガーの隣に立ち、わたしを笑った令嬢。今は実家の商会で、薬剤取引の検品部門を手伝っている。手紙には、以前より硬い字で書かれていた。
『青雫事件後、商会内の薬剤棚を全面検査しました。見落としていたことが多すぎました。星濾工房の記録法を参考に、検品帳を作りました。問題点があれば指摘してください』
検品帳を開くと、商品名、製造者、製造番号、検品日、外観、匂い、沈殿、使用者からの苦情欄が並んでいる。丁寧だ。ただ、王都の商会らしく、利益率の欄が大きい。わたしは赤鉛筆を持った。
「利益率を消すのですか」
マリウスが聞く。
「消しません。ただ、安全確認より前に来るのはよくありません」
帳面の順番を入れ替える案を書く。一、使用者の危険。二、製造記録の確かさ。三、保管状態。四、返品・廃棄条件。五、利益。商売を否定するつもりはない。
利益がなければ、薬を運ぶ商会は続かない。だが、利益が先頭にあると、危険な薬を見た時に判断が遅れる。ノラは帳面を見て言った。
「この人、本当に変わったんですね」
「変わろうとしているのだと思います」
「先生は、嫌じゃないんですか」
「少し嫌です」
正直に言うと、ノラが目を丸くした。
「嫌なんですか」
「ええ。昔のことを思い出しますから。でも、嫌だから役に立つ指摘をしない、というのは違います」
わたしは、コレットに対して完全に穏やかな気持ちではいられない。彼女の笑い声は、今でも時々耳の奥に残る。けれど、彼女が薬剤検品を良くしようとしているなら、それは多くの人を守る。わたしの感情だけで止めていいものではない。
返事には、赤字を入れた写しと、短い言葉を添えた。
『危険確認を利益欄より前に置いてください。苦情欄は、購入者を責める欄ではなく、次の検品に使う欄です。あなたが商会で続けるなら、王都の棚は少し安全になります』
最後の一文を書く時、少し迷った。褒めすぎではないか。甘すぎではないか。だが、事実なら書けばいい。人は罰だけで変わるわけではない。変わろうとする行動を見たなら、それも記録する。数日後、コレットから返事が来た。
『利益欄は最後に移しました。笑ったことは消えません。けれど、棚の危険は減らします』
わたしは手紙を畳み、検品資料の棚に入れた。過去を忘れたわけではない。ただ、未来の棚には、少し別の並べ方ができる。
◇
青星基金の規約が整った日、最初の申請者が来た。東門の靴職人の妻だった。夫が冬の仕事で指を痛め、凍傷軟膏と痛み止めを必要としている。代金は払えるが、今月の薪代を払うと薬を諦めるしかないという。彼女は申請書を握りしめ、何度も謝った。
「恥ずかしい話で」
「恥ではありません」
わたしは申請書を受け取った。
「薬が必要な時に、代金のために遅れるほうが危険です。そのための基金です」
基金は、ローウェル家から返還された金の一部で始まった。しかし、わたし個人の気持ちだけで動かすものにはしなかった。領主館、商人組合、診療所の代表が月に一度確認する。誰かの好意ではなく、町の仕組みにするためだ。
申請書には、症状、必要薬、支払い可能額、後日の返済予定を書いてもらう。返せない時は、無理に取り立てない。ただし記録は残す。靴職人の妻は、字を書くのが苦手だった。テオが隣で、ゆっくり読み上げる。
「ここは、指が痛い人の名前です」
「夫の名でいいのかい」
「はい。ここは、どの指か」
「右手の、人差し指と中指」
書き終えた紙は少し歪んでいたが、必要な情報は揃っていた。わたしは凍傷軟膏を出し、使用手順を説明した。
「熱い湯につけないでください。痛みが強い時は、この痛み止めを食後に。指の色が黒くなる、感覚がなくなる、腫れが広がる時は診療所へ」
彼女は何度も頷いた。
「代金は、今ここで半分だけ」
「はい。残りは基金で立て替えます。返済は来月以降、無理のない範囲で」
「本当に、いいんですか」
「本当に」
彼女が帰ったあと、ノラが基金帳を見て言った。
「先生のお金が、ちゃんと薬になりましたね」
「わたしだけのお金ではありません。奪われた記録から戻ったものです」
「だから、記録に戻すんですか」
「ええ」
ローウェル家で消された名前と報酬が、今度は誰かの治療を遅らせないための帳面になる。痛みが消えるわけではない。けれど、過去の扱い方は選べる。夕方、靴職人本人から使いが来た。短い札には、震えた字でこうあった。
『指が少し曲がるようになった。仕事に戻れそうだ。借りは返す』
わたしは札を基金帳に挟んだ。返すものは、お金だけでなくてもいい。誰かが次の冬を無事に越すことも、十分な返済になる。




