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夫の功績にされていた天才錬金術師ですが、妻を辞めたのでポーションも魔導具も作りません  作者: 小竹X


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第31話 婚約発表の掲示

領主館で婚約を発表する日、わたしは朝から工房にいた。式の準備ではなく、通常の開店準備である。煎じ薬の鍋を火にかけ、前日に洗った瓶を検品し、予約表の午後の欄に赤線を引く。


『工房主、領主館出席のため午後二刻より不在。緊急受付はビアンカ、調合判断はノラとマリウスの合議』


 こう書いてから、少し迷った。ノラが横から覗き込む。


「先生、婚約発表の日にも業務掲示を書くんですか」


「工房は開いていますから」


「本当に先生らしいです」


 褒められたのか、呆れられたのか分からない。昼過ぎ、白い工房着から淡い青の礼服へ着替えた。袖口には、小さな星の刺繍を入れてもらっている。礼服であっても、わたしの仕事を消したくなかった。


 領主館の広間には、町の有力者や騎士団、商人組合の代表が集まっていた。王都の舞踏会ほど飾り立てられてはいない。けれど、顔が近い。誰が何を思っているか、よく見える。セドリック様は、広間の中央でわたしを待っていた。


 彼の礼装にも、胸元に小さな星の留め具がある。


「緊張しているか」


「少し」


「俺もだ」


 意外で、少し笑ってしまった。式辞は簡潔だった。辺境伯セドリック・アーヴェンと、星濾工房主リリアナ・ヴェルネが婚約する。その言い方に、胸の奥が静かにほどけた。伯爵家の娘でも、誰かの元妻でもなく、工房主。


 わたしの今の名が、前に出ている。発表のあと、商人組合長が近づいてきた。


「これで星濾工房も領主館直営に近くなるのでしょうか」


 早速、その質問が出る。セドリック様が口を開く前に、わたしは答えた。


「いいえ。婚姻後も、工房の契約主体と記録責任は変わりません。領主館からの依頼も、他と同じく注文書を通します」


 組合長は目を瞬いた。


「それは、辺境伯様もご承知で」


「承知している」


 セドリック様が続ける。


「俺の婚約者だから信用しろ、という取引はしない。彼女の工房だから信用されるべきだ」


 広間に、低いざわめきが広がった。恥ずかしい言葉ではある。けれど、必要な言葉だった。発表の掲示板には、婚約の告知と並んで、星濾工房の業務継続条件が貼られた。ビアンカが作った文面だ。


『婚姻により工房主の名義・検品基準・記録保管規定は変更されない』


 硬い文章だが、これほど心強い掲示もない。夜、工房へ戻ると、入口に小さな花束が置かれていた。東門の革職人からだった。札には一言だけ。


『午後の赤字、読みやすかった』


 婚約祝いとしては妙な言葉だ。それでも、わたしには何より嬉しかった。


 ◇


宮廷錬金術局から、厚い議事録が届いた。表紙には『第三回薬剤規格改革班議事録』とある。以前なら、わたしの手元には来なかった類の書類だ。マリウスが、少し緊張した顔で差し出した。


「こちら、閲覧と意見書提出の依頼です。星濾工房主宛です」


「わたし個人ではなく」


「はい。工房主リリアナ・ヴェルネ殿、と」


 封筒の宛名を指でなぞる。名前が正しく書かれている。それだけで、書類を読む姿勢が少し変わる。議事録には、薬剤の材料表示、製造番号、失敗品廃棄の記録義務、発表時の共同製作者記名について細かな案が並んでいた。悪い内容ではない。


 だが、現場を知らない言葉も多かった。


「この『軽微な不純物』という表現は危険です」


 わたしは赤鉛筆を取った。


「不純物を軽微と判断する基準が書かれていません。誰が、どの方法で、どれほどの量を確認するのか。曖昧なままでは、都合の悪い混入が全部軽微になります」


 マリウスが急いで写す。


「それから、廃棄記録に二名の署名が必要なのは良いですが、二名とも上司では意味がありません。作業者一名と検品者一名。立場の違う人の署名が必要です」


「立場の違う人」


「上だけで閉じると、下の人が見つけた失敗を消せます」


 ノラが作業台の向こうから言った。


「それ、よくないです」


「ええ。とてもよくありません」


 午後いっぱいかけて、議事録に赤字を入れた。最後の項目に、ガルヴァン元局長の処分後の体制について記されていた。派閥解体。外部監査の導入。地方工房からの意見聴取。完全な改革かどうかは分からない。


 けれど、閉じた部屋の中だけで決まっていたものに、外の風が入ってきている。


「先生、王都って変われるんですか」


 テオが聞いた。


「すぐには変わりません」


「じゃあ、意味がない?」


「いいえ。変われないと思って放っておくと、同じ薬でまた誰かが苦しみます。変わるのが遅くても、言葉を出す意味はあります」


 赤字だらけの議事録は、少し怖い見た目になった。ビアンカが封筒を用意しながら言う。


「王都の方々は、読むだけで胃を痛めそうですね」


「薬を同封しましょうか」


 冗談で言ったつもりだった。ノラが真顔で棚を見た。


「胃薬ならあります」


「同封しません」


 工房に笑いが起きた。議事録を閉じる。わたしの仕事は、辺境の棚だけではなくなっている。けれど、手元の瓶を洗うことと、王都の規格に赤字を入れることは、同じ線の上にある。人を守るために、名前と記録を残す。それだけは変えない。


 ◇


初雪の二日後、山村から使いが来た。北の小さな炭焼き村で、子どもが凍傷を起こしたという。道は狭く、馬車は途中までしか入れない。領主館の医師も向かうが、温め方を誤ると悪化する。凍傷用の軟膏と保温具が必要だった。わたしは予約表を見た。


 今日の工房には、喉薬の大口調合と、騎士団の携帯薬点検が入っている。全部を自分で持つことはできない。


「ノラ、喉薬の調合はあなたが主担当。マリウスさん、検品記録をお願いします。テオは瓶札。ビアンカ、騎士団点検を一刻遅らせられるか確認してください」


 指示を出すと、皆がそれぞれ動いた。少し前なら、わたしは全部を抱えていた。今は分けられる。それは楽をすることではない。守れる範囲を広げることだ。


 凍傷軟膏には、熱を強く入れすぎない油が要る。温める薬ではなく、冷えた皮膚をゆっくり戻す薬だ。星の計量匙で羊脂と白根草を量り、鍋の温度を低く保つ。焦げた匂いが出たら失敗。淡い草の香りだけが残るまで、ゆっくり混ぜる。


 使いの少年は、炉の前で足を揺らしていた。


「急げないんですか」


「急ぐところと、急いではいけないところがあります」


「でも、弟が」


「分かります。だから今、急がずに作っています」


 少年は唇を噛んだ。その気持ちは責められない。待つ人にとって、鍋のゆっくりした泡は残酷に見える。完成した軟膏を小壺に詰め、使用手順を大きな札に書いた。一、雪でこすらない。二、熱い湯に入れない。


 三、乾いた布で包み、体温に近い温かさで戻す。四、色が黒く変わったら、すぐ医師へ。テオが絵を添えた。


「字を読めない人にも分かるように」


「助かります」


 わたしは頷いた。出発は、セドリック様の部下が手配してくれた。途中からは馬を降りて歩く必要があるという。わたしも行く準備をした。ビアンカが外套を持ってくる。


「工房主が行かなくても、薬だけ届ける方法もあります」


「最初の症例は見たいのです。次から誰でも対応できる記録にします」


「では、護衛を二人つけます」


「お願いします」


 山道へ向かう馬車の中で、使いの少年は壺を両手で抱えていた。


「これで治りますか」


「治るように使います。薬だけで決まるわけではありません。扱い方も大切です」


 少年は真剣に頷いた。雪はまだ細かい。白い道の先に、小さな村がある。工房の棚から遠い場所にも、わたしの仕事は届くようになっていた。

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