第30話 ローウェル家の残務
ローウェル家から届いた封筒は、以前のものより薄かった。厚い紙で威圧する余裕がなくなったのだろう。封蝋も、少し簡素なものに変わっている。差出人は、管財人だった。
わたしは工房の奥の机で封を切った。ビアンカが隣に立ち、必要なら立ち会うと言ってくれている。中身は、財産整理の報告書と、未払い分の返還計画だった。
ローウェル家がわたしの名を伏せて得た報酬のうち、証明できる分が分割で返される。その一部は、すでに国庫から差し押さえられていた。数字は大きい。けれど、紙の上の数字を見ても、胸はあまり動かなかった。
「もっと怒ると思っていました」
ビアンカが言う。
「怒っていないわけではありません。ただ、これで昔の夜が返ってくるわけではないので」
あの工房で眠れなかった夜。食事を冷ましたまま、濾過布を絞った夜。発表の翌朝、夫が笑顔で称賛を受け、わたしは洗い場で瓶を片付けていた朝。それらは返らない。なら、返ってくるものは未来に使うしかない。
報告書には、エドガーの処分も記されていた。爵位は剥奪されないが、宮廷関係の資格は停止。薬剤取引は監督付き。さらに基礎課程からの再教育が命じられている。
「基礎課程」
ノラが、少し離れたところから言った。
「瓶洗いからですか」
「たぶん、記録の書き方からでしょう」
「遅いですね」
「遅くても、始めるなら意味はあります」
自分で言って、少し息を吐いた。許したわけではない。けれど、誰かが落ちたまま腐ることを願い続けるのは、自分の手を占領される。わたしの手は、もう別のものを作るために使いたい。夕方、セドリック様が工房へ来た。
報告書を見せると、彼は静かに目を通した。
「返還金の使い道は決めているのか」
「半分は工房の安全設備へ。残りは、患者が薬を先に受け取れる基金にしたいと思います」
「自分のために使わなくていいのか」
「自分のためです」
彼が顔を上げる。
「わたしが欲しかったのは、使える机と、止められる炉と、名前のある記録です。それはもうあります。だから次は、薬が必要なのに代金を握りしめて迷う人を減らしたい」
セドリック様は、報告書を閉じた。
「基金の規約は、領主館で整えよう。君の善意が、誰かの都合で食いつぶされないように」
「お願いします」
窓の外で、新しい工房の看板が夕日に染まっている。ローウェル家の残務は、まだ少し続くだろう。けれど、それはわたしの生活の中心ではない。中心には、今日の処方と、明日の予約と、洗ったばかりの瓶がある。それでよかった。
◇
父が辺境へ来るという知らせは、短い手紙で届いた。以前のように、帰ってこいとは書かれていなかった。
『工房を見たい。差し支えなければ会ってほしい』
それだけだった。わたしは返事に迷った。父は、エドガーの横暴を直接命じたわけではない。だが、わたしが笑っていないことに気づきながら、伯爵家の娘として耐えろと言った人でもある。会えば、過去の整理が進むかもしれない。
会っても、何も変わらないかもしれない。結局、工房の営業時間中に来てもらうことにした。客人としてではなく、わたしの職場を見る人として。父は約束の時刻に来た。以前より少し老けていた。旅装は上等だが、顔には疲れがある。
「リリアナ」
「ようこそ、星濾工房へ」
わたしは、工房主として挨拶した。父の目が、看板から作業台、薬棚、記録板へ動く。最後に、白い工房着の袖口の星を見た。
「立派な場所だ」
「皆で整えました」
父は、皆で、という言葉に少し反応した。ローウェル家の工房では、わたしは一人だった。誰かが手伝っても、名前は残らなかった。今は違う。ノラが薬草を選び、テオが札を書き、ビアンカが来客をさばき、マリウスが記録の書式を整理している。
父は棚の前で足を止めた。
「お前が、ここまでできるとは」
胸の奥が、少し痛んだ。褒め言葉のはずなのに、遅すぎる。
「できるかどうかを、見に来てくださらなかったからです」
父は何も言わなかった。しばらくして、静かに頭を下げた。
「すまなかった」
その言葉は、欲しかったものの一部だった。けれど全部ではない。
「謝罪は受け取ります。ですが、以前のような親子には戻れません」
「分かっている」
「今後、わたしの仕事や婚姻について、家の都合で口を挟まないでください」
父は息を吸い、頷いた。
「約束する」
「それから、母に伝えてください。わたしは元気です。けれど、無理に会いに来なくていいと」
「母さんは、お前に会いたがっている」
「会いたい気持ちだけでは足りません。会って、何を言うかが大切です」
父は、今度はすぐに返事をしなかった。沈黙の間に、工房の音が聞こえる。瓶を置く音。紙をめくる音。薬草を刻む音。わたしの今の暮らしは、沈黙を怖がらなくていい。帰り際、父は棚に並ぶ瓶を見て言った。
「お前の名前が、すべてにあるのだな」
「わたしだけではありません。作った人、確認した人、渡した人の名前があります」
「そうか」
父は少しだけ笑った。
「それが、お前の家なのだな」
家、という言葉に、わたしはすぐ答えられなかった。血の家ではない。けれど、帰る場所ではある。
「はい。わたしの工房です」
◇
父が帰ってから三日後、小さな荷物が届いた。差出人は母だった。中には古い薬箱が入っていた。角が擦れ、留め金は少し歪んでいる。子どもの頃、母の部屋の棚にあったものだ。添えられた手紙は短い。
『あなたが十歳の時、初めて調合した熱冷ましの紙が残っていました。捨てるべきか迷いましたが、あなたに返します。会う言葉は、まだ整っていません』
薬箱の底に、黄ばんだ紙が入っていた。幼い字で、薬草の名前と分量が書かれている。数字は少し曲がり、余白には小さな花の絵まである。わたしは思わず笑った。
「先生、変なものでも入っていましたか」
ノラが近づく。
「わたしの最初の処方箋です」
「見たいです」
「恥ずかしいです」
「じゃあ、よけい見たいです」
ノラの要求は遠慮がない。結局、工房の皆で見ることになった。十歳のわたしは、風邪をひいた母のために薬を作ったらしい。記憶はぼんやりしているが、夜中に侍女に叱られながら薬草棚を開けたことは覚えている。紙には、父の字で追記があった。
『効いた。だが、台所の蜂蜜を使いすぎた』
テオが笑った。
「蜂蜜、三杯って書いてあります」
「多いですね」
「でも、お母様は飲みやすかったと思います」
マリウスが真面目に言う。その真面目さが少しおかしくて、工房に小さな笑いが広がった。わたしは薬箱を開け、今の処方箋と並べた。古い紙は幼く、今の紙は整っている。けれど、根は同じだ。誰かが苦しんでいるから、少しでも楽にしたい。
その気持ちから始まったものを、いつの間にか夫の功績にされた。家の体面に使われた。宮廷の評価に変えられた。でも、始まりは奪われていなかった。母は、言葉を整えられないまま、それを返してくれたのかもしれない。夕方、わたしは返事を書いた。
『薬箱を受け取りました。十歳の処方箋は、星濾工房の資料棚に置きます。会う日は、急がなくてよいです。けれど、会う時は、わたしが何を失ったかだけでなく、今何を作っているかを見てください』
書き終えて、しばらく筆を握ったままにした。親子の傷は、一度の手紙で治らない。薬と同じだ。急に熱を下げすぎると、体が追いつかない。少しずつ、様子を見ながら整えることもある。古い薬箱は、資料棚の一番上に置いた。
その下には、灰冠熱の記録。東門の苦情。新しい飲用札。過去は、飾るためではなく、今の仕事を間違えないために置く。十歳のわたしの字は、少し曲がっている。それでも、ちゃんと薬を作ろうとしていた。




