第29話 白い工房着
新工房では、工房着をそろえることになった。理由は安全のためだ。袖が広い服は炉に触れやすい。薬草の粉がついたまま外へ出るのもよくない。南区の件で、作業着の重要性は皆よく分かっていた。問題は、色だった。
「白がいいです」
ノラが言う。
「汚れが目立ちます」
「だからいいんです。汚れたら分かるから」
それは正しい。ただ、白い服には少し抵抗があった。ローウェル家で、わたしは白い工房着を着ていた。夫の発表に出る前、夜明けの工房で汚れた袖を急いで洗い、また同じ白を着た。白は清潔の色であると同時に、汚してはいけない重圧の色だった。
ビアンカは、そのことに気づいたのだろう。
「別の色でも構いません。薄い灰色なら汚れも見えます」
わたしは布見本を見た。白、灰色、淡い青。迷っていると、テオが小さく言った。
「白に、星の印を付けたらどうですか。ローウェル家の白ではなく、星濾工房の白になります」
工房が静かになった。ノラが、テオの肩を叩く。
「いいこと言いますね」
「痛い」
わたしは白い布を手に取った。布そのものに罪はない。過去の工房着が苦しかったのは、白のせいではない。名がなく、休めず、汚れた袖を見られないまま働いていたからだ。今なら、白に別の意味を付けられるかもしれない。
「白にしましょう。袖口に小さな星印を」
ノラが歓声を上げた。工房着は、南区の織物職人たちが縫ってくれることになった。灰塩粉で苦しんだ人たちが、今度は工房を守る服を作る。その流れが嬉しかった。数日後、最初の工房着が届いた。
白い布は丈夫で、袖は細く、前掛けには記録用の小さなポケットがある。袖口に、青い糸で星が一つ刺繍されていた。ノラはすぐに着た。
「どうですか」
「似合っています」
「見習いっぽいですか」
「工房員らしいです」
その言葉に、ノラは少し胸を張った。テオも着た。少し大きいが、袖を折れば使える。ビアンカは動きやすさを確認し、満足そうに頷いた。最後に、わたしの分が渡された。白い工房着。手にした瞬間、胸の奥に古い痛みが触れた。
けれど、袖口の星印が目に入る。これは、あの工房の服ではない。星濾工房の服だ。着替えて鏡の前に立つと、少し見慣れない自分がいた。白い工房着に、青い星。
袖口には、指の動きを邪魔しない余裕がある。前掛けのポケットには、小さな記録鉛筆が入る。
「似合っています」
ビアンカが言った。
「本当に?」
「はい。今までで一番」
その言葉に、少し目が熱くなった。セドリック様が新工房へ来た時、全員が白い工房着を着ていた。彼は入口で足を止め、少しだけ目を細めた。
「良いな」
「汚れが目立ちます」
「だから良い」
ノラと同じことを言う。わたしは袖口の星を見た。汚れは隠さない。失敗も隠さない。洗って、記録して、また着る。白い工房着は、もう我慢の色ではなかった。明日も仕事をするための色だった。
◇
新工房の最初の一週間は、思ったより静かに始まった。大きな看板を掛けたのだから、すぐに町中から注文が来る。そんな不安もあったが、現実の工房には、まず棚の位置を覚える時間が必要だった。
煎じ薬の棚は北壁。乾燥薬草は日を避けて奥。核石は鍵付きの箱へ。未検品の品は赤い札をつけ、完成品とは絶対に混ぜない。わたしは一つずつ確認し、記録板に印を付けていった。
「先生、それはもう三回確認しました」
ノラが言う。
「三回で足りますか」
「普通は足ります」
普通、という言葉にはまだ慣れない。ローウェル家では、確認が足りなければわたしのせいだった。確認しすぎても、時間がかかると叱られた。だから今でも、手を止める場所を探すのが苦手だ。
机の上には、セドリック様にもらった星形の計量匙が置いてある。銀ではなく、丈夫な白銅。柄の先に小さな星が彫られていて、容量は半匙、一本、二本の三種類。装飾品というより、毎日使う道具として作られている。
「使わないんですか」
テオが覗き込んだ。
「綺麗だから、少し迷っていました」
「道具は使ったほうが喜ぶと思います」
子どもに正しいことを言われる。わたしは一番小さな匙を手に取り、乾燥した白芹の粉をすくった。匙の縁は薄すぎず、粉がこぼれにくい。柄は指に馴染む。星の彫りは、滑り止めにもなっていた。
「……使いやすい」
思わず言うと、ノラが笑った。
「贈った人に伝えてください」
「ええ」
その日の昼、最初の苦情が来た。東門の革職人が、完成したばかりの疲労回復薬を一本持って工房へ入ってきた。顔は怒っているが、瓶は布で包まれている。割らずに持ってきたところを見ると、話を聞く余地はある。
「これは効きすぎる。昨日飲んだら、夜に眠れなかった」
わたしは瓶を受け取り、記録札を確認した。製造番号、作業者、検品者、用途。すべて揃っている。処方は軽めのはずだ。
「いつ飲みましたか」
「夕方だ。仕事が終わる少し前」
「食事は」
「まだだった」
記録に追記する。
「この薬は朝か昼に飲むものです。空腹で夕方に飲むと、眠りが浅くなることがあります。説明札が小さかったかもしれません。申し訳ありません」
職人は肩透かしを食ったような顔をした。
「薬が悪いって言ってるわけじゃない。ただ、効きすぎて怖かった」
「怖いと思わせたなら、こちらの仕事が足りません」
ノラに、説明札の見本を持ってこさせる。確かに字が詰まっている。急ぎの人は読まないだろう。
「次から、飲む時間を赤で大きく書きます。今回の分は交換します。夜に飲んでも眠りを邪魔しにくい処方を出します」
「金は」
「差額はいただきません。説明不足の修正です」
革職人は黙って頷いた。苦情は、失敗の入口ではない。隠さなければ、改善の入口になる。帰り際、職人は新しい瓶を懐に入れ、小さく言った。
「こういう話を、ちゃんと聞く店は少ない」
「聞かないと、薬は良くなりません」
彼が出て行ったあと、わたしは説明札の書式を直した。星の計量匙は粉で少し白くなっている。使った道具のほうが、やはり綺麗に見えた。
◇
王都から、若い錬金術師が一人派遣されてきた。名前はマリウス・セイム。宮廷錬金術局に入って三年目で、灰冠熱の件のあと、現場研修を希望したのだという。紹介状には、丁寧な字で「規格改革班所属」と書かれていた。
けれど、本人は工房の入口で立ち尽くしていた。
「本当に、ここで作業をしてよろしいのでしょうか」
「研修ですから」
「いえ、その、私は王都の者です。ローウェル子爵の件で、辺境の皆様には不快な思いをさせてしまったはずで」
彼はまだ若い。背筋を伸ばしすぎて、首のあたりが少し固い。わたしは作業台の前に案内した。
「マリウスさんが、わたしの記録を奪ったのですか」
「違います」
「灰塩粉を混ぜた失敗品を市場に出しましたか」
「していません」
「なら、ここで学ぶべきことがあります。王都の人間であることだけで罪にしません。ただし、王都の慣習を正しいものとして押しつけるなら、すぐ帰っていただきます」
マリウスは深く頭を下げた。
「学びます」
最初の課題は、瓶洗いだった。彼は少し驚いた顔をしたが、文句は言わなかった。むしろ、一本ずつ丁寧に洗い、乾燥棚に置く角度まで確認した。ノラが隣で見ている。
「宮廷錬金術師も瓶を洗うんですね」
「宮廷でも洗います。ただ、分業が多くて、自分で洗った瓶を自分で使う機会は少ないです」
「それ、怖くないですか」
「怖いと思うべきでした」
マリウスは素直に答えた。その答えに、ノラの目つきが少しやわらいだ。午後、彼に喉薬の下処理を任せた。雪豆草の茎を取り、葉だけを選ぶ作業だ。見た目は簡単だが、傷んだ葉を残すと香りが濁る。マリウスは早かった。しかし、早すぎた。
わたしは皿を一枚持ち上げる。
「この葉は残せません」
「色はまだ青いですが」
「端が乾いています。煎じると苦味が出ます」
彼はすぐに記録板へ書いた。
「端乾き、苦味の原因」
「書くのは良いことです。ただ、目で覚えるだけでは足りません。匂いも確認してください」
葉を潰し、香りを比べさせる。健康な葉は青く、傷んだ葉は乾いた紙のような匂いがする。わずかな違いだが、患者の喉には大きい。マリウスは真剣に嗅ぎ、眉を寄せた。
「王都では、均質な材料として見ていました」
「材料は均質ではありません。だから規格が必要です。規格は、人の目を消すためではなく、目をそろえるためにあります」
言ってから、少し驚いた。自分でも、そんなふうに整理できるようになっていたのかもしれない。夕方、マリウスは一日の記録を出した。字は整っている。反省も多い。最後に、小さく書かれていた。
『名前を札に残すことは、名誉ではなく責任である』
わたしはその一文に丸を付けた。
「明日も来てください」
「よろしいのですか」
「学ぶ人を断る工房にはしたくありません」
マリウスは、今日いちばん自然な顔で頷いた。




