第28話 領主家の食卓
婚約後、初めて領主家の食卓に招かれた。正式な晩餐ではなく、セドリック様いわく「普通の食事」だった。けれど、銀器は磨かれ、燭台には火が入り、使用人たちは少し緊張している。普通の基準は家によって違う。わたしも緊張していた。
ローウェル家での食卓を思い出す。エドガーは宮廷の話をし、わたしは次の納品の段取りを考えながら相槌を打った。料理の味より、夫の機嫌を見る時間だった。今夜は、違う。そう思っても、体はまだ昔を覚えていた。
席につくと、セドリック様がこちらを見た。
「緊張しているか」
「しています」
「俺もだ」
「セドリック様が?」
「婚約者を食事に招くのは初めてだ」
その正直さに、少し肩の力が抜けた。食事は、温かいスープから始まった。北の根菜と鶏肉のスープで、薬膳ではないのに体が温まる。思わず材料を考えそうになり、やめた。
「仕事の目になっている」
セドリック様が言った。
「すみません」
「責めてはいない。だが、今夜は味も見てくれ」
味。言われて、改めてスープを飲む。塩は控えめで、根菜の甘みがある。鶏肉は柔らかい。薬としてではなく、食事としておいしい。
「おいしいです」
「よかった」
彼は少しだけ安心した顔をした。その表情が、なんだか胸に残った。食事の途中、使用人の一人が控えめに声をかけた。
「ヴェルネ様。星濾工房で出している喉薬ですが、料理人の妻が使いまして。よく眠れたと申しておりました」
「それはよかったです。使用後に咳が増えたりは」
「ありません」
「では、次回から量を少し減らしても大丈夫かもしれません。後ほど記録を」
そこまで言って、食卓だったことを思い出した。セドリック様が、口元を押さえている。
「笑いましたか」
「少し」
「すみません。仕事の話に」
「いや。君が仕事を大事にしているのは知っている。ただ、食事中に記録を取ろうとしたので」
使用人たちも、肩を震わせていた。恥ずかしい。けれど、嫌な恥ずかしさではなかった。食後、庭へ出た。夜風は冷たいが、空には星が出ていた。アーヴェンの星は、王都より近く見える。
「食卓は、大丈夫だったか」
セドリック様が尋ねた。
「はい。少し、昔を思い出しました。でも、違いました」
「何が」
「機嫌を見る食卓ではありませんでした」
言ってから、胸が少し痛む。セドリック様は、しばらく黙っていた。
「これから、そういう食卓にしない」
「はい」
「君も、俺の機嫌を見るために食べるな。味が薄ければ言え」
「味が薄い時は言います」
「頼む」
真面目な約束だった。でも、その真面目さが嬉しかった。帰る時、料理人が小さな包みを持たせてくれた。余った根菜の焼き菓子だという。ノラとテオへ、と書かれていた。領主家の食卓から工房へ、食べ物が届く。
その流れが、少しずつ日常になっていくのかもしれない。工房へ戻ると、ノラは焼き菓子に大喜びした。
「婚約って、おいしいですね」
「その理解は少し違います」
そう言いながら、わたしも一つ食べた。甘さは控えめで、温かかった。
◇
新しい星濾工房が完成した日は、朝からよく晴れていた。北の空は高く、風は冷たい。けれど、陽光は石壁に明るく当たり、薬草畑の葉が細かく光っている。工房の新しい屋根には、まだ木の香りが残っていた。建物は、想像していたより大きかった。
入口には相談窓口。右手に記録室。奥に調合室と乾燥室。左には魔導具修理室。裏手には休憩室と小さな食堂。水場は二つあり、汚れた器具と清潔な瓶を分けて洗える。ビアンカは水場を見て、深く頷いた。
「これで瓶洗いが半分楽になります」
「半分だけ?」
「仕事は増えるでしょうから」
現実的だった。ノラとテオは、相談窓口の札を取り付けている。ゲイル老兵は星風濾過器の修理台を確認し、マリウスさんは医療棚の高さに文句を言っていた。
「この棚は少し高いです。背の低い者が使うことを考えて」
「直します」
工事を担当した職人が、すぐに印を付ける。完成の日なのに、改善点はすでに出ている。でも、それでいい。使って直す。記録して変える。完成は、終わりではなく始まりだ。看板は、入口の上に掲げられた。星濾工房。責任者、リリアナ・ヴェルネ。
遠くからでも読める。少し大きすぎる気もするが、ノラは満足そうだった。開所式は、簡素にする予定だった。
ところが、町の人たちが次々に来た。南区の職人、北砦の兵士、薬草畑の家族、宿場町の商人、王都から来た組合職員まで。誰かが花を持ち、誰かが蜂蜜を持ち、誰かが空の瓶を持ってきた。
「祝いに空瓶?」
ノラが首を傾げる。持ってきた職人は笑った。
「星濾工房なら使うだろう」
「使います」
ビアンカが即答した。開所の挨拶を求められ、わたしは看板の下に立った。人の視線が集まる。舞踏会の夜の視線を思い出す。あの時は、笑われ、測られ、捨てられるのを待たれていた。今の視線は違う。期待もある。心配もある。好奇心もある。
それでも、ここにいる人たちは、工房の仕事を見ている。
「星濾工房は、薬と魔導具を作る工房です」
声は少し緊張していた。
「けれど、ただ作るだけではありません。誰に使うのか、どう使うのか、使ったあとどうなったのかを記録します。危ないものは捨てます。分からないことは分からないと言います。必要なら、領主様の依頼でも断ります」
そこで、少し笑いが起きた。セドリック様も、笑わずに頷いている。
「ここで作るものには、名前を残します。責任を押しつけるためではなく、道筋を見えるようにするためです。どうか、困った時は相談してください。使いにくい時も、教えてください。工房は、使う人と一緒に育てます」
言い終えると、拍手が起きた。大きな拍手だった。王都の発表台でエドガーが受けていた拍手を、わたしは何度も背後で聞いた。今、拍手はわたしだけに向けられているわけではない。工房全体へ向けられている。それが、嬉しかった。
開所式のあと、最初の相談者が来た。年配の男性で、手に古い魔導湯沸かしを抱えている。
「祝いの日に悪いが、これ、直せるかい。孫のミルクを温めるのに使っていたんだ」
ノラが笑った。
「開所一番、修理依頼です!」
「記録を取りましょう」
わたしは新しい記録机へ向かった。完成の日の最初の仕事は、派手な新薬ではなく、古い湯沸かしの修理だった。星濾工房らしいと思った。




