第32話 雪の村で使う薬
炭焼き村に着いた時、空はもう薄暗かった。村の家は雪を避けるように低く並んでいる。煙突から細い煙が上がり、外に積まれた薪には古い布がかけられていた。使いの少年の家では、母親が戸口で待っていた。
「錬金術師様、弟は奥です」
「様は要りません。足を見せてください」
部屋の奥で、七つくらいの男の子が毛布にくるまっていた。右足の指が赤紫に変わり、ところどころ白く硬い。母親は、熱い湯を用意していた。わたしはすぐに手を上げた。
「湯には入れないでください」
「でも、冷えているから」
「急に熱を入れると、皮膚の奥が傷みます。まず乾いた布で水気を取り、温かい部屋でゆっくり戻します」
説明札を出すと、母親は震える手で受け取った。読めるかどうか不安だったので、テオの描いた絵を指で示す。
「この絵の通りです。雪でこすらない。火に近づけすぎない。壺の軟膏は、白いところに薄く」
男の子は痛みで涙をためている。
「痛いの、なくなる?」
「全部すぐにはなくなりません。でも、余計に痛くしないようにします」
子どもに嘘を言うのは嫌だった。軟膏を塗ると、最初は体をこわばらせたが、しばらくして肩の力が抜けた。母親が息を吐く。医師が到着するまで、色の変化を記録した。
暖炉の距離、布の厚さ、軟膏の量。山村で使うなら、工房の作業台とは違う条件がある。暗い部屋では瓶の目盛りが読みにくいし、清潔な布も足りない。これを知らずに薬だけ売れば、半分の仕事で終わってしまう。夜、村長の家で追加の聞き取りをした。
凍傷は今年だけ多いわけではない。毎年、炭焼きの子どもや高齢者が同じ失敗をしている。温めようとして雪でこすり、熱い湯に入れ、かえって悪化させる。
「薬より先に、説明が必要ですね」
わたしは記録板に書いた。
「冬の始めに、村ごとに凍傷札を配る必要があります」
護衛の騎士が言う。
「領主館に提案しましょう」
「工房だけでは届かないので、教会と炭焼き組合にも」
薬は壺の中だけにあるわけではない。正しい扱いを知っている人が増えれば、それだけ怪我は軽くなる。翌朝、男の子の足は少し赤みを戻していた。まだ安心はできないが、最悪の黒変は避けられそうだ。母親は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「次は、もっと早く呼べる仕組みを作りましょう」
雪道を戻りながら、わたしは空の壺を一つ抱えていた。薬を届けただけでは足りない。山まで届く工房の形を、考えなければならなかった。
◇
山村から戻った翌日、わたしは領主館の馬車置き場にいた。古い荷馬車が一台、壁際に置かれている。かつて税の帳簿を運ぶために使われていたものだという。車輪は丈夫だが、内部は埃っぽい。セドリック様が腕を組んで見ていた。
「これを工房にするのか」
「小さな処置室と記録台にはできます。調合は最小限にして、保管と説明を中心にします」
「炉を載せるのは危険だな」
「はい。火を使わない処方だけです。温めが必要なものは保温箱を使います」
移動工房馬車。名前は少し大げさだが、山村や遠い牧場へ行くには必要だった。薬を作って届けるだけでは、使い方を伝えきれない。現場で患者を見て、次の記録へつなげる場所が要る。マリウスは内部の寸法を測り、テオは棚の高さを確認している。
「揺れると瓶が割れます」
テオが言った。
「棚に斜めの押さえ板をつけましょう。瓶の首を一本ずつ留める形で」
「面倒ですけど、安全です」
「安全は面倒です」
ノラが大きく頷く。
「それ、工房の標語にしましょう」
「しません」
馬車には、小さな折り畳み机をつけることにした。患者の家に入れない時でも、外で記録が取れる。床下には廃棄箱。汚れた布や失敗した薬を、持ち帰って処理するためだ。ビアンカは費用表を作っていた。
「基金から出せる分と、領主館の冬季対策費から出せる分があります。工房の名義だけで負担しすぎないでください」
「分かっています」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんでは困ります」
叱られてしまった。以前のわたしなら、必要だと思ったものは自分の睡眠や食事を削って作った。今はそれをしないと決めている。だが、決めただけでは癖は消えない。セドリック様が費用表を見た。
「冬季対策として領主館が車体を整備する。工房は内部の薬剤棚と運用規定を作る。基金は患者負担の軽減に限る。これでどうだ」
「公平です」
ビアンカがすぐに頷いた。わたしも頷く。
「ありがとうございます」
「礼より、運用規定だ。誰が乗る、何を積む、どこまで行く。決めずに始めると危ない」
その通りだった。工房へ戻り、移動工房馬車規定の一枚目を書いた。
『目的。遠隔地における応急薬剤配布、使用説明、症状記録、危険事例の早期発見』
大きな言葉に見えるが、始まりは雪の村の小さな足だ。次の冬に、同じ痛みを少しでも減らす。そのための車輪を作る。
◇
移動工房馬車の準備が進む中で、ノラが初めて大きな失敗をした。喉薬の下煮で、鍋底を焦がしたのだ。焦げ自体は珍しくない。火の加減を誤れば誰にでも起きる。問題は、ノラがそれをすぐに言わなかったことだった。
わたしが気づいたのは、瓶詰めの前である。香りがわずかに重い。甘い薬草の匂いの下に、黒い紙のような焦げ臭さがあった。
「この鍋、底を見せてください」
ノラの顔色が変わった。
「先生、少しだけです」
「少しでも、見せてください」
鍋底には、薄い焦げが広がっていた。量としてはわずかだ。混ぜれば分からないかもしれない。だが、喉を痛めた患者には刺激になる。わたしは瓶詰めを止めた。
「この分は廃棄します」
ノラの目が潤んだ。
「全部ですか」
「全部です」
「材料、無駄にしました」
「はい」
「予約分、遅れます」
「はい」
短い返事しかできなかった。怒鳴らないと決めている。けれど、失敗を軽く扱うこともできない。ノラは唇を噛んだ。
「言えばよかったんです。でも、先生が山村のことで忙しそうで、これくらいなら大丈夫かもって」
「これくらい、が一番危ないです」
わたしは廃棄記録の紙を出した。
「書きましょう。作業者はノラ。検品者はわたし。原因は火加減と申告遅れ。対策は」
ノラは涙を拭いた。
「焦げた匂いを感じたら、すぐ申告する。鍋底を確認する。忙しそうでも言う」
「もう一つ」
「……先生が忙しそうな時は、ビアンカさんかマリウスさんにも言う」
「そうです」
廃棄箱に薬液を移す時、ノラはずっと見ていた。もったいない。その気持ちは必要だ。もったいないから隠すのではなく、もったいないから次に残す。
夕方、予約していた患者には遅れの連絡を出した。代わりに、残っていた安全な予備薬を先に渡す。追加分は明日の朝までに作る。ノラは自分から、患者への説明に立った。
「私の下煮で焦げを出しました。安全のため作り直します。お待たせします」
声は震えていた。だが、隠さなかった。患者の老人は、ノラの顔を見て言った。
「焦げた薬を出されるより、待つほうがいい」
ノラは深く頭を下げた。夜、作り直しの鍋を一緒に見た。火は低く、匂いは澄んでいる。ノラは何度も鍋底を確認した。
「先生」
「はい」
「失敗したら、工房員じゃなくなりますか」
「失敗を隠したまま人に渡すなら、工房員でいられません。失敗を記録して直すなら、工房員です」
ノラは小さく頷いた。焦げた鍋は、磨いても薄い跡が残った。翌日、その鍋に赤い札をつけた。
『申告を省略しない』
工房の失敗は、棚の奥に隠さず、次の手の届く場所に置く。




