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夫の功績にされていた天才錬金術師ですが、妻を辞めたのでポーションも魔導具も作りません  作者: 小竹X


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第25話 共同契約

婚姻条件案は、三枚になった。ビアンカは五枚になると予想していたらしい。少し残念そうだった。


「十分多いと思うのですが」


「ヴェルネ様なら、もっと細かくされるかと」


「婚姻です。薬の調合表ではありません」


「ですが、相手は辺境伯様です。細かくしても読まれます」


 それは確かにそうだった。条件案には、姓の扱い、工房の権利、収入の管理、研究記録の所有、子どもが生まれた場合の育児と仕事の分担、領主家の依頼と個人依頼の区別まで書いた。最後に、少し迷って一文を加えた。


 相手の善意を理由に、自分の不調を隠さないこと。これは、わたしだけでなくセドリック様にも必要な条件だ。翌日、彼に条件案を渡すと、セドリック様は真剣に読み始めた。薬の報告書を読む時と同じ顔だった。


「何か問題が」


「良い条件だ」


「本当に?」


「特に最後がいい」


 彼は最後の一文を指した。


「俺にも必要だ」


「そう思って書きました」


「分かっている」


 彼は少しだけ苦笑した。そのあと、自分の条件案を出した。こちらも三枚だった。一つ、リリアナが研究に集中したい時、領主家の社交行事への出席を強制しない。二つ、領主家の財産と工房の財産を混ぜない。


 三つ、リリアナがアーヴェンを離れて研究発表や組合活動をする場合、夫の許可ではなく予定共有で足りる。四つ、セドリックが領主として危険な命令を出した場合、リリアナは拒否できる。


 五つ、互いの仕事を尊重するが、仕事を理由に会話を省略しない。最後の条件を読んで、わたしは顔を上げた。


「会話を省略しない」


「必要だと思った」


「どちらに」


「両方に」


 その通りだった。わたしは説明を諦める癖がある。セドリック様は必要だと判断したことを黙って背負う癖がある。どちらも、放っておけばすれ違いになる。


「良い条件です」


 わたしが言うと、彼は少し安堵したようだった。その表情を見て、胸が温かくなった。条件書は、冷たいものではない。相手を疑うためだけのものでもない。大事にしたいものを、最初に言葉にするためのものだ。


 午後、レナードさんに二人の条件案を見せると、彼はたいそう楽しそうだった。


「婚姻契約としては非常に実務的で、文官としては嬉しい限りです」


「嬉しいのですか」


「揉めた時に解釈しやすい契約は、良い契約です」


 ビアンカは横で頷いている。


「揉めないためではなく、揉めた時に壊れないためですね」


 その言葉に、わたしははっとした。壊れないため。以前の結婚は、揉めてはいけないと思っていた。夫婦なのだから、波風を立ててはいけない。そうして、言葉にしない不満や不安が積もり、最後には一気に崩れた。今度は、揉めても壊れない形を作る。


 夕方、セドリック様と二人で条件書の最終確認をした。まだ婚約でも結婚でもない。それでも、互いの名が同じ紙に並んでいる。リリアナ・ヴェルネ。セドリック・アーヴェン。署名の位置は、同じ高さだった。


「正式な申し込みは、改めてする」


 彼が言った。


「はい」


「その時は、花を用意するべきか」


 真面目に聞かれて、少し笑ってしまった。


「薬草ではない花なら」


「薬草の方が君は喜ぶと思った」


「喜びますが、求婚の花としては少し実用的すぎます」


「では、両方にする」


 そういうところが、彼らしい。共同契約の紙は、まだ仮のものだ。けれど、わたしの胸には、不思議な安心があった。好きになることを、条件で縛るのではない。好きなまま、自分を失わないために条件を置く。


 それは、わたしがもう一度誰かの隣に立つための、最初の調合だった。


 ◇


新しい工房が完成する前に、注文書だけが増えた。星濾工房の記録机には、朝から紙が積み上がっている。北砦からは青星式喉薬の補充。南区からは星風濾過器の布。山側の村からは子ども用の解熱薬。宿場町からは薬の相談窓口を作れないかという依頼。


 以前なら、嬉しさより先に焦りが来た。今も焦りはある。けれど、焦ったまま受けない仕組みを作ると決めた。


「この注文は、今月中には無理です」


 わたしが言うと、ノラは少し驚いた顔をした。


「断るんですか」


「延期します。理由を添えて。薬草畑の収穫量と、工房の人数を超える注文は受けられません」


「でも、困ってるかもしれません」


「だから、代替案を書きます。今ある薬で対応できるものと、近くの薬舗へ回すものを分けます」


 ノラはしばらく考え、頷いた。


「断るのも、薬の一部ですか」


「そうです」


 テオが横で、延期札を書いている。彼の字は少しずつ柔らかくなってきた。最初は緊張で線が硬かったが、最近は読む人を意識した余白ができた。


「ヴェルネさん。この文、きつくないですか」


 彼が差し出した紙には、「現在の工房能力を超えるため受注できません」と書かれていた。


「正しいですが、もう少し相手が次に動けるようにしましょう」


 わたしは赤字を入れた。現在の工房能力では、六月十日以降の納品となります。急ぎの場合は、同封の代替処方表をご確認ください。


「相手を叱る紙ではなく、迷わない紙にします」


「はい」


 テオは真剣に書き直した。昼過ぎ、セドリック様が工房へ来た。注文書の山を見て、少し眉を上げる。


「増えたな」


「増えました。なので、受注基準を作ります」


「良い」


「領主家の依頼も、同じ基準で見ます」


「当然だ」


 そう即答されると、少し拍子抜けする。王都では、領主や宮廷の依頼はすべて最優先だった。下の仕事は後回し。弱い相手ほど待たされる。結果として、急ぎでない貴族の薬が先に作られ、熱を出した子どもの薬が遅れる。星濾工房では、そうしない。


「優先基準は、命の危険、代替手段の有無、納期、工房負担の順にします」


「領主家の儀礼用薬は、かなり下になるな」


「はい」


「構わない」


 彼は真面目に頷いた。その返事だけで、また少し安心する。夕方、初めての正式な注文書控えが完成した。星濾工房受注番号、一。依頼者、北砦医療係。品名、青星式喉薬。納期、五日後。調合責任者、リリアナ・ヴェルネ。


 補助者、ノラ、ビアンカ、テオ。最後に、受注可否の理由欄がある。緊急度、代替なし。工房能力内。その紙を見て、ノラが少し感動した顔をした。


「注文書に、私の名前もある」


「補助者ですから」


「責任もありますね」


「あります」


「でも、嬉しいです」


 その言葉を聞いて、最初の名札を貼った日のことを思い出した。名前の重さは、消えない。けれど、みんなで持てば、仕事の形になる。注文書の山はまだ高い。でも、もう夫の発表台のために徹夜する紙ではない。


 必要な人へ、必要な薬を届けるための紙だった。

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