第24話 最初の弟子
最初の弟子は、ノラではなかった。ノラはそれを聞いて、しばらく口をきかなかった。
「私は見習いですけど、最初ではないんですか」
「あなたは、もう工房の一員です。弟子というより、見習い職員です」
「違いが分かりません」
「給金が出ています」
「それは大事です」
ノラは少しだけ機嫌を直した。新しく来たのは、南区の織物職人の息子、テオだった。十三歳。灰塩粉で喉を痛めた母親を看病しているうちに、薬の札に興味を持ったらしい。字はゆっくりだが丁寧で、手先が器用だった。
彼は工房の入口で、帽子を握りしめていた。
「薬を作る人になれるかは分かりません。でも、札を書く仕事からでも、学べるなら」
その言い方に、わたしは王都の工房を思い出した。あそこでは、薬を作る人と雑用をする人の間に、見えない段差があった。瓶を洗う人、札を書く人、薬草を運ぶ人の名前は、ほとんど残らなかった。星濾工房では、そうしない。
「では、最初に覚えることがあります」
わたしは白い札を一枚渡した。
「薬の名前より、使う人を先に見ること。字が綺麗でも、読めなければ意味がありません。小さすぎる字も、難しすぎる言葉も避けます」
「はい」
「次に、分からないことを分からないと言うこと」
「はい」
「最後に、危ないと思ったら、相手が誰でも止めること」
テオは、その三つ目で少し目を丸くした。
「領主様でもですか」
「領主様でもです」
ちょうど工房へ入ってきたセドリック様が、真面目に頷いた。
「止めてくれ」
テオは慌てて頭を下げた。
「はい!」
ノラが得意げに腕を組む。
「私が教えます。黄色は子ども、白は大人、緑はうがい、赤は使っちゃ駄目」
「それは覚えやすいです」
「あと、ヴェルネさんは休ませないと休みません」
「それも覚えます」
「覚えなくていいです」
わたしが言うと、ビアンカが背後で首を横に振った。
「覚えてください」
工房中が笑った。テオの最初の仕事は、南区用の換気布交換表を清書することだった。ノラは先輩らしく横で指導するが、時々偉そうになりすぎる。テオは真面目に聞きながら、分からないところを一つずつ質問した。良い質問をする子だった。
「この布、洗う人の名前を書く欄があるんですね」
「はい。誰がやったか分かると、次に忘れにくくなります」
「責めるためですか」
「責めるためだけではありません。手伝うためでもあります」
テオは少し考え、欄の横に小さく「困った時は相談」と書いた。ノラが感心した顔をした。
「それ、いいです」
わたしも頷いた。教えることは、教えられることでもある。夕方、テオは初めての札を完成させた。字は少し硬いが、読みやすい。使用手順も簡潔で、相談先も書かれている。
「よくできています」
わたしが言うと、彼の顔がぱっと明るくなった。
「名前を書いてもいいですか」
「もちろん。作成者名として」
テオは慎重に自分の名を書いた。ノラが横でうずうずしている。
「私も先輩として確認印を」
「確認したなら」
「しました!」
札の隅に、ノラの確認印が入る。少し賑やかだが、息がしやすい。工房が広がるというのは、部屋が大きくなるだけではない。名前が増えることなのだと思った。リリアナ・ヴェルネだけではなく、ノラ、ビアンカ、マリウス、ゲイル、テオ。
その名が、仕事の道筋を作っていく。夜、記録帳に新しい項目を作った。見習い教育記録。最初の欄に、テオの名を書く。その横に、ノラが勝手に小さく星を描いた。消そうと思ったが、やめた。最初の弟子の記録には、少しぐらい星があってもいい。
◇
セドリック様が、個人的な話があると言ったのは、新工房の柱が立ち始めた頃だった。
場所は城の庭ではなく、星濾工房の裏手だった。薬草畑の端に小さなベンチがあり、夕方になると風が少しだけ弱まる。ノラたちは新工房の見取り図に夢中で、ビアンカはわざとらしく用事を作って席を外した。
嫌な予感と、そうではない予感が同時にした。
「リリアナ」
セドリック様は、いつものようにまっすぐ呼んだ。
「はい」
「君に、婚姻の申し込みを考えている」
考えている。その言い方があまりに彼らしくて、返事より先に瞬きをしてしまった。
「考えている、ですか」
「いきなり申し込むと、君の逃げ道を塞ぐ可能性がある」
「それで、考えていると予告を」
「そうだ」
真面目だった。本当に真面目に、求婚の予告をしている。胸が熱くなるより先に、少し笑ってしまった。
「笑うところか」
「すみません。でも、セドリック様らしいと思って」
彼は少し困った顔をした。
「正式に申し込む前に、条件を確認したい」
「条件」
「君が婚姻で工房を失わないこと。名を変えるかどうかは君が決めること。星濾工房の責任者の地位は婚姻と切り離すこと。子が生まれても、生まれなくても、君の仕事を夫の家のものとして扱わないこと」
一つずつ、彼は言った。それは甘い愛の言葉ではなかった。けれど、わたしにはどんな宝石より重かった。以前の婚姻で失ったものを、彼は最初から契約の外へ置こうとしている。
「それから」
セドリック様は、少しだけ視線を落とした。
「俺が領主として君の仕事を必要としていることと、個人として君を好ましく思っていることを、混ぜたくない。混ぜて、君に断りにくくさせたくない」
胸の奥が、ゆっくり熱くなる。好ましく思っている。その控えめな言葉が、彼らしくて、かえって強かった。
「わたしは」
声が少し詰まった。好きです、と言うのは簡単ではない。
夫に愛を向けようとしていた頃の自分が、まだどこかで怯えている。好きだと言えば、また自分を差し出してしまうのではないか。相手のために無理をし、名を薄め、気づけば工房の鍵を失うのではないか。でも、セドリック様は鍵を奪う人ではない。
休めと言い、名前を書けと言い、逃げ道を残す人だ。
「お返事に、時間をいただけますか」
「もちろんだ」
彼はすぐに答えた。
「急がない」
「嫌だからではありません」
「分かっている」
「分かっているのですか」
「たぶん」
少しだけ曖昧だった。その曖昧さに、安心した。完璧に分かる人などいない。分かろうとして、確認して、必要なら待つ。それでいいのだと思えた。ベンチの横で、薬草の小さな花が揺れている。白い花だった。
王都の舞踏会の花飾りとは違う。香りも控えめで、土の匂いがする。
「セドリック様」
「何だ」
「条件書を、わたしも書きます」
彼の目が少し見開かれた。
「婚姻の?」
「はい。わたしの条件を、わたしの言葉で」
その瞬間、彼の口元がわずかに緩んだ。
「それがいい」
求婚の返事を、条件書から始める。色気はないかもしれない。けれど、わたしたちには似合っている気がした。夜、工房の記録机に向かい、白い紙を出した。婚姻条件案。そう書いた瞬間、ビアンカが後ろで小さく噴き出した。
「何か」
「いいえ。ヴェルネ様らしいと思いまして」
わたしは少しだけ頬を熱くしながら、ペンを取った。名前を失わないための条件。誰かを好きになるための条件。それを書くことは、臆病ではなく、前へ進む準備なのだと思った。




