第23話 工房を建てる土地
星濾工房は、手狭になっていた。
もともと薬草保管庫だった部屋に、薬棚、濾過器、記録机、乾燥棚、魔導具の修理台まで詰め込んでいる。ノラが棚の間をすり抜けるたび、どこかで瓶が鳴る。ビアンカは毎朝、これ以上物を置くなら廊下で調合することになると文句を言っていた。
そんな中、セドリック様が一枚の図面を持ってきた。
「新しい工房を建てる土地だ」
図面には、城下の東側、井戸と薬草畑の間の空き地が示されていた。南区へも近く、城からも離れすぎない。水場があり、荷馬車も入れる。条件だけ見れば、理想的だった。だからこそ、わたしはすぐに返事ができなかった。
「大きすぎませんか」
「今の工房が小さすぎる」
「建設費が」
「領の医療設備として予算を組む。星濾工房は領の契約工房だ」
「でも、わたし個人の工房でもあります」
「だから、契約を分ける」
セドリック様は、もう一枚の書類を出した。土地と建物はアーヴェン領が所有する。星濾工房は、一定期間の優先使用権を持つ。設備の一部は工房資産として扱い、移転時には持ち出せる。領の公的依頼と、民間の依頼を分けて記録する。
工房責任者はリリアナ・ヴェルネ。かなり細かい。わたしが不安に思う点を、先回りして書いてある。
「レナードさんの案ですか」
「半分は」
「もう半分は?」
「君が逃げ道を失わないようにした」
その言葉に、胸が詰まった。大きな建物を与えられることは、喜びだけではない。そこに縛られる怖さもある。ローウェル家の工房は、最初はわたしの居場所のように見えた。けれど、鍵も名も夫のものになり、最後には逃げ出す場所になった。
セドリック様は、それを分かっている。
「見に行きます」
空き地へ向かうと、ノラがすでにいた。どうやって聞きつけたのか、薬草畑の母親たちまで集まっている。ゲイル老兵は杭を持ち、ビアンカは呆れた顔で敷地の端を見ていた。
「まだ決まっていません」
わたしが言うと、ノラは笑顔で頷いた。
「はい。だから、どこに乾燥棚を置くか仮で考えてます」
「それを決まっていると言うのでは」
「仮です」
空き地は、思ったより広かった。東側には井戸があり、南に薬草畑。北側には荷馬車を入れられる道。西には小さな広場があり、町の人が相談に来ても並びやすい。ここに工房が建つ。
記録室、調合室、魔導具修理室、乾燥室、相談窓口。休憩室も必要だ。ノラの札を貼る場所も。想像すると、少し怖くて、少し楽しい。
「相談窓口を入口の近くに」
気づけば、口に出していた。ノラの顔が輝く。
「決まりですか」
「まだ配置の話です」
「でも、作るんですよね」
わたしは空き地を見た。王都から逃げた時、持っていたのは鍵と記録だけだった。今、目の前には土地があり、人がいる。工房を建てる話をしている。大きすぎる。でも、一人で背負わなければいい。
「作ります」
言うと、ノラが飛び跳ねた。ビアンカはため息をつきながらも、目元が柔らかかった。ゲイル老兵は杭を地面へ打ち込む。マリウスさんは医療導線について早速文句を言い始めた。セドリック様は、少し離れた場所でその光景を見ていた。
「ありがとうございます」
わたしが言うと、彼は首を横に振った。
「礼なら、完成して使いにくかった時に改善案で返してくれ」
「それは必ず」
「頼もしい」
新しい工房は、まだ線だけだ。けれど、地面に打たれた杭の一本一本が、未来の形を少しずつ示していた。
◇
新しい工房の看板を作ることになった。建物はまだ基礎工事の途中だというのに、ノラが待ちきれなかったのだ。ゲイル老兵も乗り気で、北の硬い木を用意し、薬草畑の人たちは塗料に使う樹脂を持ってきた。わたしは、まだ早いと言った。
誰も聞かなかった。
「看板は乾かすのに時間がかかります」
ビアンカまでそう言った。
「あなたも賛成なの」
「はい。今の入口の看板は小さいですし、新工房にはもっと遠くから読めるものが必要です」
確かに、相談窓口を作るなら、初めて来る人にも分かる看板が要る。名前は実用品だ。そう自分に言い聞かせても、大きな板に文字を入れるのは緊張した。星濾工房。責任者、リリアナ・ヴェルネ。その下に、組合登録番号。
さらに、薬・魔導具・相談窓口と小さく書く予定だった。
「責任者名、もう少し大きくしませんか」
ノラが言う。
「これで十分です」
「遠くから見えません」
「遠くから責任者名を読まなくても」
「読めた方が安心します」
その言葉に、反論が止まった。患者や依頼人にとって、誰が責任者か分かることは安心になる。わたしが恥ずかしいから小さくするのは、少し違う。
「では、少しだけ大きく」
「やった」
「少しだけです」
ゲイル老兵は、笑いながら木へ下絵を写した。看板作りは、想像以上に賑やかだった。
ノラは星の位置にこだわり、ビアンカは文字の読みやすさにこだわり、マリウスさんは相談窓口の表示をもっと大きくしろと言った。セドリック様は通りかかっただけのはずが、最終的に高さを測る係になった。
「領主様が看板の高さを測るのは、普通ですか」
ノラが小声で聞く。
「普通ではないと思います」
わたしが答えると、セドリック様がこちらを見た。
「聞こえている」
「すみません」
「高さが合わない看板は危ない」
真面目な返事に、皆が笑った。午後、文字を彫る段になって、ゲイル老兵が彫刻刀をわたしへ渡した。
「責任者の名前は、ご本人が最初の線を入れた方がいいでしょう」
「わたしが?」
「ええ。名を入れるというのは、そういうものです」
木の板の前に立つと、手が少し震えた。紙に名を書くのとは違う。木に刻めば、簡単には消えない。リリアナ。最初の線を入れる。刃が木に沈み、細い削り屑が落ちた。ヴェルネ。次の線を入れる。自分の名が、木の中から少しずつ出てくる。
それは怖くて、でも美しかった。
「いい線です」
ゲイル老兵が言った。
「少し曲がりました」
「手で彫る文字は、少し曲がる方が生きています」
ノラが大きく頷く。
「私の字も生きてます」
「あなたの字は元気すぎます」
ビアンカが言い、また笑いが起きた。夕方、看板の下彫りが終わった。塗装は明日からだ。まだ完成していないのに、文字の形ははっきり見える。セドリック様が隣に立った。
「良い看板だ」
「まだ途中です」
「途中でも分かる」
彼は、わたしの名が彫られた部分を見ていた。
「消えにくいですね」
「消えにくくした」
「逃げ道を残すと言ったのに」
「逃げ道と、消えない名前は両立する」
そう言われて、少し考えた。名前が刻まれていても、必要なら変えられる。移れる。やり直せる。消えない名前は、牢ではなく、道標にもなる。夕暮れの光の中で、看板の文字が影を作っていた。責任者、リリアナ・ヴェルネ。
それはもう、夫の肩越しに見える名前ではなかった。工房の入口に、自分で刻む名前だった。




