第18話 失敗品を捨てる勇気
薬草が足りなくなるより先に、瓶が足りなくなった。
王都の工房なら、新しい瓶を買えばよかった。アーヴェンでは、そう簡単にはいかない。商人の馬車は隔離で止まり、城の倉庫にも限りがある。洗って再利用できる瓶は使うが、ひびの入った瓶は使えない。ノラが、木箱の底から数本を取り出した。
「これ、少し欠けてるだけです。布で巻けば使えませんか」
わたしは瓶を手に取った。口の縁に、目立たない欠けがある。液漏れはしないかもしれない。けれど、飲む時に唇を切る可能性がある。欠けたところに汚れが残れば、薬が腐る。
「使いません」
「でも、瓶が」
「捨てます」
ノラは唇を噛んだ。責めているわけではない。足りない現場では、捨てることが怖い。捨てた分だけ、誰かに届かないかもしれない。その怖さは、わたしにもある。けれど、危ない瓶を使えば、届いた相手を傷つける。
「使えないものを使うと、足りない問題を別の問題に変えるだけです」
「……はい」
ノラは欠けた瓶を廃棄箱へ入れた。その手が少し震えていた。
「怖いですね」
「ええ。捨てるのは怖いです」
「ヴェルネさんも?」
「もちろん」
そう答えると、少女は少し安心したようだった。午後、さらに難しい選択が来た。銀葉草の抽出液が一鍋、わずかに焦げた。
火加減を誤ったわけではない。炉の底に古い煤が落ち、部分的に温度が上がったのだ。色はほとんど変わらない。香りも、慣れていない人なら気づかない程度だ。でも、喉の薬としては使えない。ビアンカが鍋を見つめた。
「外用なら」
「使えません。灰塩で荒れた喉に使う薬です。焦げた成分が混じれば刺激になります」
「では、廃棄ですね」
彼女は静かに言った。しかし、その量は大きかった。子ども用の薬湯なら五十杯分。南区の配布所で、半日分に当たる。捨てると決めた瞬間、胃が痛くなった。
王都の工房で、エドガーに「もったいない」と言われ続けた声が蘇る。少し薄めればいい。別の薬に混ぜればいい。君は融通が利かない。違う。これは融通の問題ではない。
「廃棄記録を付けます」
わたしは帳面を開いた。日時、炉、原因、廃棄量、再発防止。書くほどに、焦げた鍋の重さが紙へ移っていく。失敗を隠さず書けば、次に少しだけ安全になる。そこへ、セドリック様が来た。彼は鍋を見て、すぐに状況を察したらしい。
「廃棄か」
「はい」
「足りるか」
「今夜分は不足します。薬草を追加で採り、簡易処方に切り替えます。効き目は弱くなりますが、安全です」
「分かった。人を出す」
責めない。もったいないとも言わない。そのことに、胸の奥が少し痛んだ。
「責めないのですか」
思わず聞いてしまった。セドリック様は、真面目に答えた。
「責めても、焦げた鍋は戻らない。必要なのは原因と次の手だ」
「王都では、まず責められました」
「王都のやり方を、ここへ持ち込む必要はない」
短い言葉だった。けれど、その言葉で手の震えが止まった。夜、追加の薬草が届いた。
山側の村から、雨の中を運んでくれたものだ。葉は少し傷んでいるが、焦げた抽出液よりずっと安全に使える。ノラが一枚ずつ選別し、ビアンカが洗い、わたしが簡易処方へ変えた。効き目は穏やかだ。でも、患者を傷つけない。
廃棄箱の中には、欠けた瓶と焦げた抽出液がある。失敗を捨てることは、成果を減らすことではない。次に届く薬を守ることだ。その夜、ノラが記録帳の端に小さく書いた。捨てる勇気。わたしはその文字を消さなかった。
◇
セドリック様が倒れたのは、灰冠熱騒ぎの七日目だった。倒れた、といっても本人は認めなかった。南区の巡回を終え、城門で報告を受けている途中に膝をつき、それでも「足を滑らせただけだ」と言ったらしい。
マリウスさんが工房へ駆け込んできた時、わたしは薬瓶に札を貼っていた。
「辺境伯様が負傷されています」
その一言で、手元の瓶を落としそうになった。治療室へ行くと、セドリック様は寝台ではなく椅子に座っていた。左腕の外套が裂け、血が滲んでいる。顔色も悪い。傷そのものより、疲労と軽い発熱が問題だった。
「寝台へ」
「必要ない」
「必要です」
「報告が」
「報告は寝台でも聞けます」
自分でも驚くほど強い声が出た。治療室が静まる。セドリック様は一瞬こちらを見て、それから素直に寝台へ移った。
「珍しいですね。すぐ従うなんて」
マリウスさんが小さく言う。
「今は逆らう方が危険だ」
セドリック様の返事に、少しだけ場が緩んだ。傷は、隔離線で倒れた荷箱を支えた時にできたものだった。木片が腕を裂き、灰塩粉が少し入っている。大きな傷ではないが、放置すれば熱が上がる。
「なぜすぐ言わなかったのですか」
「大したことではないと思った」
「大したことかどうかは、診てから決めます」
布を外すと、傷口の周囲が赤くなっていた。胸がぎゅっと縮む。患者は何人も診てきた。けれど、セドリック様の腕に血が滲んでいるだけで、手がいつもより慎重になった。それに気づき、少し動揺した。仕事に私情を混ぜてはいけない。
でも、私情があるから雑になるとは限らない。怖いからこそ、手順を守ればいい。
「灰塩が入っています。洗浄します。痛みます」
「分かった」
彼は短く答えた。洗浄液をかけると、腕の筋肉が強張る。それでも声を上げない。
「我慢しすぎないでください」
「兵の前で情けない声は出せない」
「ここには兵ではなく、治療する者がいます」
セドリック様は少し黙り、それから息を吐いた。
「痛い」
「はい。続けます」
その素直な一言に、なぜか泣きそうになった。痛みを認めることは、弱さではない。彼はそれを、町の人には言わせてきた。けれど自分には言えなかったのだろう。治療が終わると、熱を測った。軽い発熱。過労もある。
「今日は休んでください」
「南区が」
「南区のために休んでください」
自分が言われた言葉を、そのまま返した。セドリック様は苦い顔をした。
「自分で言った言葉は厄介だな」
「はい」
マリウスさんが笑いをこらえている。ビアンカは黙って温かい薬湯を用意した。夜、セドリック様の熱は下がり始めた。治療室の灯を落とす前、彼が静かに言った。
「君が王都で言っていたことを思い出した」
「何をですか」
「一人で守ると、また無理をする、と」
「はい」
「俺にも当てはまるらしい」
その声には、少しだけ苦笑が混じっていた。
「当てはまります」
「では、覚えておく」
わたしは包帯の端を確認し、立ち上がった。胸の中に残る不安は、まだ消えない。けれど、彼が痛いと言い、休むと約束したことは、治療の一部になった。工房へ戻る廊下で、ビアンカが静かに言った。
「ヴェルネ様。顔が真っ赤です」
「炉の熱です」
「治療室に炉はありません」
返す言葉がなかった。




