第17話 名前を貸さない
宮廷錬金局からの使者は、灰冠熱対策の最中に来た。今度の使者は黒い荷馬車ではなく、立派な馬車に乗っていた。局長補佐を名乗る男で、丁寧な言葉遣いをしているが、目は工房の中を値踏みするように動いていた。
「星濾工房のご活躍は、王都でも評判です」
男は会議室で微笑んだ。
「そこで、宮廷錬金局としても、ヴェルネ様の技術を広く王国に役立てたいと考えております」
言葉だけなら、喜ばしい申し出だ。けれど、机の上に置かれた書類を見た瞬間、わたしは息を止めた。共同技術提供契約。
宮廷錬金局名義で、星濾工房の濾過手順、低刺激回復薬、換気補助具の図面を統一規格化する。リリアナ・ヴェルネの名は「監修者」として記載される。製造と出荷の最終責任は宮廷錬金局が持つ。美しい言葉で包んである。
だが、実質は名前を貸せという話だった。
「監修者とは、どの範囲の責任ですか」
わたしが尋ねると、使者は笑みを深めた。
「名誉ある立場です。細かな製造は局で行いますので、ヴェルネ様にご負担はかかりません」
「製造手順の変更権限は」
「現場の判断もございますので」
「材料の産地確認は」
「統一調達となります」
「使用後の経過報告は」
「そこまで細かく求めると、普及が遅れます」
答えは、ほとんど予想通りだった。名は使う。責任の道筋は見えなくする。青雫の霊薬で起きたことを、少し綺麗な契約書で繰り返そうとしている。
「お断りします」
使者の笑顔が固まった。
「今、何と」
「お断りします。わたしは、名前だけを貸しません」
「王国全体のためですよ」
「王国全体のためなら、手順を省かず、責任者を明記し、使用後の報告を集めてください」
「理想論です。現場では迅速な普及が」
「迅速に広がる失敗品を、わたしは見ました」
会議室が静かになった。使者は、少し声を低くした。
「ヴェルネ様。青雫の件で宮廷錬金局の面子は傷つきました。ここで協力すれば、あなたの立場も安定します。王都で正式な地位を用意することも可能です」
王都の正式な地位。かつてのわたしなら、喉から手が出るほど欲しかったかもしれない。宮廷錬金術師として認められ、発表台に立ち、自分の名で拍手を受ける。でも、その地位が名を貸す代価なら、また同じ場所へ戻るだけだ。
「わたしの立場は、わたしの仕事で作ります」
声は静かだった。
「宮廷錬金局と協力しないとは言っていません。必要な技術は共有できます。ただし、条件があります」
レナードさんが、こちらの用意した条件書を机に置いた。一つ、製造者名をすべて記録する。二つ、手順変更には調合責任者の承認を必要とする。三つ、使用後報告を義務化する。四つ、不良品の廃棄規定を明記する。
五つ、星濾工房の名を使う場合は、現地検査を受ける。使者は紙を見て、顔を歪めた。
「これは、局への不信ですか」
「はい」
はっきり答えると、男は言葉を失った。
「不信があるから、仕組みを作ります。信じてください、では薬は安全になりません」
セドリック様が隣で腕を組んでいる。彼は口を挟まなかった。わたしが自分で断るのを待ってくれていた。使者はしばらく沈黙したあと、書類を持ち帰ると言った。
「局長に伝えます」
「お願いします」
彼が去ったあと、ビアンカが深く息を吐いた。
「王都の方々は、なぜ同じことを綺麗な紙に書けば通ると思うのでしょう」
「通ってきたからでしょう」
わたしは条件書の控えを記録帳に挟んだ。名を貸さない。それは、意地ではない。星濾工房の名がついた薬や魔導具を使う人のためだ。名前は、看板ではなく道筋でなければならない。夕方、南区へ星風濾過器の二号を取り付けに行った。
職人たちは、王都の使者の話をどこかで聞いたらしい。
「ヴェルネさん、王都へ行っちまうのかい」
「行きません」
わたしが答えると、年配の女性がほっとしたように笑った。
「それは助かる。うちの換気の布、明日も見てほしいからね」
王都の地位より、明日の布。今のわたしには、その約束の方が大事だった。
◇
南区の朝は、いつもの城下より音が少なかった。
市場の呼び声はない。荷車の軋む音も少ない。通りの入口には布で巻いた杭が立てられ、兵士が二人ずつ交代で見張っている。閉じ込めるためではなく、必要なものが届く道を守るためだと、セドリック様は何度も説明した。
それでも、人の不安は簡単には消えない。窓からこちらを見る子どもの顔。扉の隙間から出される空の水瓶。咳をこらえる音。そうしたものが、通りの静けさの下に重なっていた。わたしは防護布を巻き、薬箱を持って巡回した。
ビアンカが横で記録を取り、ノラは配布所に残って札を整理している。ノラは一緒に来たがったが、子どもたちへ薬の色を説明する係が必要だと言うと、不満そうに引き受けた。最初の家では、年配の男性が熱を出していた。
喉の灰色斑は薄い。灰塩粉を吸い込んだ影響が強い。水分を取り、うがい液を使い、解熱薬は半量で良い。次の家では、若い母親が二人の子どもを抱えていた。
一人は軽い咳だけ。もう一人は熱が高い。薬の量を変え、母親にも休むよう伝える。すると彼女は、休む時間などないと笑った。その笑い方を、わたしは知っている。休むことを諦めた人の笑いだ。
「食事の配達を増やします」
「でも、他の家も」
「あなたが倒れたら、二人の子どもを診る人が減ります」
そう言うと、彼女は唇を噛んだ。休む理由は、自分のためだけでは届かない時がある。ならば、守りたい相手のために休むと言えばいい。それは、セドリック様に教えられたことだった。通りの奥で、職人たちが星風濾過器の布を替えていた。
使い方は少しぎこちないが、手順札を見ながら慎重に作業している。粉を吸わないよう、湿らせた布で床を拭く人もいた。薬だけではない。手順が町へ移り始めている。
「ヴェルネさん」
年配の女性が、窓越しに声をかけてきた。
「これ、昨日のうがい液。孫が嫌がらずに使ったよ。苦くないって」
「よかったです。今日の分も置いていきます」
「名前、書いてあるから間違えないね」
その一言に、胸の奥が温かくなった。名前は、見つけてもらうためにある。午前の巡回が終わるころ、セドリック様が南区へ来た。兵たちへ指示を出しながら、通りの端でわたしたちを待っている。
「患者数は」
「重症化は二名。新規発熱は昨日より減っています。ただし油断できません」
「必要なものは」
「銀葉草と清潔な布。あと、母親たちの休憩場所です」
「休憩場所?」
「看病している人が限界に近いです。短時間でも交代できる場所を作らないと、家ごと倒れます」
セドリック様は、すぐに兵へ指示した。空き倉庫を整え、看病者の休憩所にする。食事と湯を置く。子どもを預かれる人を募る。判断が形になるのが早い。その速さに、町の人たちの表情が少し変わった。隔離は、ただ閉じ込めるものではない。
守るために、外から手を入れ続けるものだ。昼過ぎ、配布所へ戻ると、ノラが胸を張って待っていた。
「薬の色、みんな覚えました。黄色は子ども、白は大人、緑はうがい。赤は使っちゃ駄目」
「よくできました」
「あと、休憩所の札も作りました」
札には、少し曲がった字でこう書かれていた。休む人も、治す人。わたしはその文字を見て、しばらく黙った。誰が教えたわけでもないのに、ノラは大事なことを掴んでいる。
「その札、工房にも欲しいです」
「作ります。ヴェルネさん用に大きく」
「普通の大きさで」
ノラは笑った。隔離区の朝は静かだ。けれど、静けさの中で、人は少しずつ動いている。その動きが止まらない限り、まだ守れる。




