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太平洋の上で、捨てる

東向きジェット気流に乗ってから、十二時間が経過していた。


三機の鎗快は、時速二百キロ近い速度で、東へ流されていた。


下を見ると、海しか見えなかった。


横を見ても、海しか見えなかった。


前を見ても、海しか見えなかった。


世界は、青と、白と、海でできていた。


千綿薫は、震えながら地図を見ていた。


「……現在地、東経百六十度付近」


「日本から、どれくらい来とるんや」


「約二千キロです」


「二千キロ」


「東京から、グアム島までの距離です」


「……ジェット気流様、ご機嫌、すごいな」


「ええ、すごいです」



   *



しかし、問題が発生していた。


千綿は、高度計を確認した。


「……二門隊長」


「なんや」


「高度が、下がっています」


「下がっとるか」


「ええ、毎時、約三百メートル」


「ペース、速いな」


「気嚢から、水素が徐々に漏れています」


「お漏らしか」


「いえ、布のお漏らしというよりは、気嚢の宿命です」


「お婆ちゃんの和紙、もうダメか」


「いえ、和紙はしっかり貼られています。ただ、水素は分子が小さい。和紙をすり抜けます」


「和紙をすり抜けるんか」


「ええ。だから、お婆ちゃんたちは半年かけて、何層も重ねました」


「何層も重ねても、漏れるんか」


「ええ、何層も重ねて、ようやくこの程度の漏れに抑えられています」


「お婆ちゃんの仕事、徒労やんけ」


「いえ、徒労ではありません。何層も重ねなければ、出撃前に漏れ尽きていました」


「徒労、ちゃうか」


「徒労ではない、努力の限界です」


千綿は、気嚢を見上げた。


直径二十メートルの、巨大な和紙の風船。


ヤエお婆ちゃんたちが、半年かけて貼った気嚢。


それが、ゆっくりと浮力を失っていた。



   *



「下がり続けると、どうなるんや」


「ジェット気流の流れる高度から外れます」


「外れたら」


「流されなくなります」


「東に、行けんようになるんか」


「ええ、太平洋の真ん中で停止します」


「停止したら」


「ゆっくり落ちます」


「墜ちるんか」


「ええ、ゆっくり墜ちます。ただし、墜ちる前に、たぶん脱水と低体温で先に死にます」


「死亡順序、淡々と言うな」


「順序立てて、説明しただけです」


二門は、しばし考えた。


そして、ぽつりと言った。


「……ほな、軽くせなあかんな」


「ええ、軽くします」


「何、捨てるんや」


千綿は、機体に積まれているものを確認した。


砂袋(バラスト)。三袋、合計六十キロ。


電熱服。これは命綱。捨てられない。


蓄電池。これも命綱。捨てられない。


燃料。降下後の機動に必要。捨てたくない。


爆弾。十五キロ。


地図、コンパス、その他装備。合計、約五キロ。


「……まず、砂袋ですね」


「捨てるか、バラストを」


「捨てましょう」


「砂袋、確か一機に、三つ積んどったな」


「ええ、三袋です。三日三晩、夜ごとに一袋ずつ捨てる予定でした」


「予定通り、一袋目、捨てるか」


「ええ、捨てます」


千綿は、サドルの後ろに括り付けた砂袋の紐を解いた。


砂袋がゆっくりと下に落ちていった。


雲の下に消えていった。


「……砂袋、捨てました」


「ええ、捨てました」



   *



砂袋を捨てて、しばらく高度は安定した。


しかし、また徐々に下がり始めた。


「……二門隊長」


「なんや」


「また下がっています」


「二袋目、捨てたら」


「ええ、捨てます」


二袋目も雲の下に消えていった。


しばし、高度は回復した。


しかし、また下がり始めた。


「……二門隊長」


「三袋目か」


「三袋目です。これが最後です」


「明日の夜の分まで、今日使うんか」


「今日墜ちたら、明日の夜はありません」


「身も蓋もないな」


「身も蓋もない、物理現象です」


三袋目も雲の下に消えた。


しかし、それでも高度は、また徐々に下がり始めた。


水素は止まらず、漏れ続けていた。



   *



三人は、しばし黙った。


下では、海が青く広がっていた。


ジェット気流の流れる高度を、もう少しで外れる。


「……二門隊長」


「うん」


「もう、捨てるものがありません」


「無いか」


「電熱服は命綱です」


「捨てられんな」


「蓄電池も命綱です」


「捨てられんな」


「燃料は、降下後に必要です」


「捨てたら、どうなるんや」


「滑空はできます。ただし、着陸地を選べません」


「着陸地、選べんと」


「風任せで、海か山か、どちらかに落ちます」


「運次第やな」


「運次第です」


二門は、しばし黙った。


それから、ぽつりと言った。


「……爆弾は、どうや」


千綿は、無言で二門を見た。


知里川も、毛皮の中から二門を見た。


二門は、震えながら続けた。


「爆弾、十五キロある」


「ええ、あります」


「それを捨てれば、東に行ける」


「……ええ、行けます」


「捨てるか」


千綿は、しばし答えなかった。


爆弾は命綱ではない。物理的には捨てられる。


しかし爆弾は、軍命の核心である。


これをアメリカに落とすために、自分たちは、ここにいる。


これを捨てるということは——


「……二門隊長」


「うん」


「爆弾を捨てるということは、任務の放棄です」


「……分かっとる」


「我々は、何のために、ここに来たのですか」


「アメリカに、爆弾を、落とすためや」


「その爆弾を、捨てるのですか」


二門は、答えなかった。


ただ震えながら、雲の上の青空を見ていた。



   *



しばし、沈黙が流れた。


ジェット気流の音だけが、耳の中で鳴っていた。


二門は、ゆっくり口を開いた。


「……ええか、千綿」


「はい」


「ワシら、いま太平洋の上におる」


「ええ」


「下は海や」


「ええ」


「横は、何も無い」


「ええ」


「前はアメリカや」


「ええ」


「後ろは戻れん」


「ええ」


「この状況で、爆弾持ったまま墜ちて死ぬか、爆弾捨ててなんとか着くか、二択や」


「……ええ」


「二択や」


千綿は、しばし目を閉じた。


ヤエお婆ちゃんの、皺だらけの手を思い出した。


「生き残りなさい」


「どこにいても、いい」


——あの言葉は、いまも千綿の手の中にあった。


千綿は、目を開けた。


そして、言った。


「……捨てましょう」


「捨てるか」


「ええ、捨てます」


「軍法会議もんやで」


「生きて、軍法会議に出ます」


「お前、強いな」


「ヤエさんの言葉が、強いんです」


知里川が、毛皮の中からぽつりと言った。


「……同感や」


「お前、毛皮の中で聞いとったんか」


「……聞いとった」


「ええ、なんでも聞いとくな」


「……マタギは、耳もええ」


「マタギ、便利やな」


二門は、機体の腹に手を伸ばした。


そこに十五キロの爆弾が、吊り下げられていた。


爆弾の紐を握った。


しばし躊躇った。


それから、ゆっくりと紐を引いた。


——カチン。


爆弾の留め具が外れた。


爆弾は、ゆっくりと下に落ちていった。


雲の下に消えていった。


太平洋の、どこかの海に墜ちて、沈んだだろう。


千綿の機体も、知里川の機体も、同じことをした。


三つの爆弾が、海に消えた。


「……捨てた」


「ええ、捨てました」


「……ワシら、軍人として敗北したな」


「ええ、敗北しました」


「……」


「しかし、人間として生き残る選択をしました」


二門は、しばし黙った。


それから、ぽつりと言った。


「……ヤエさんに合わせる顔、あるか、これで」


千綿は、震えながら答えた。


「あの方は、たぶんこう、おっしゃいます」


「なんて」


「『よろしい』」


「……それだけか」


「それだけです」


「短いな」


「短くて、ええんです」


爆弾を捨てたおかげで、高度はなんとかジェット気流の境界に留まった。


三機の鎗快は、震えながら東へ流れ続けた。


下では、太平洋が相変わらず青かった。


そこに、三つの爆弾が沈んでいた。


誰の歴史にも残らない、三つの爆弾だった。


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