ジェット気流様、お願いします
三機の鎗快は、北に、流されていた。
高度、約一万メートル。
外気温、マイナス五十度。
千綿薫は、与圧電熱服のスイッチを、入れた。
カチン、と乾いた音がした。
何も、起こらなかった。
「……動きません」
「動かんか」
「ええ、整備兵長の体温が、もう、冷めたようです」
「五時間温めて、五時間で冷めたんかい」
「むしろ、よく持った方でしょう」
「事実を、淡々と言うな」
千綿は、新聞紙にくるまれた蓄電池を、自分の腹に、押し当てた。
しかし、千綿の体温も、既に下がっていた。
蓄電池は、もう、温まらなかった。
「……ダメですね」
「ダメか」
「物理法則に、私の体温は、敗北しました」
「物理法則、強いな」
知里川が、ぽつりと言った。
「……ワシ、毛皮、持ってきた」
「は?」
「……熊の毛皮や」
知里川は、サドルの後ろから、もぞもぞと、何かを取り出した。
巨大な、毛皮であった。秋田で取った、熊のものらしい。
「お前、いつから、それ、隠し持っとったんや」
「……ずっと」
「ずっと?」
「……訓練の時から」
「飛行機の重量制限、無視しとるやんけ」
「……熊一頭分、軽くした」
「どうやって軽くしたんや」
「……食うた」
「食うたんかい!」
知里川は、毛皮を、自分の与圧電熱服の上から、ぐるりと巻いた。
途端に、知里川は、人間というより、熊のような姿になった。
「……あったかい」
「お前ずるいぞ」
「……マタギの、知恵や」
「マタギ、ずるいな」
「……ずるくない。生き残る、ための、知恵や」
千綿は、震えながら、その姿を見ていた。
「……知里川くん」
「……なんや」
「私にも、少し、貸してください」
「……無理」
「無理ですか」
「……一人分の、毛皮や」
「……」
「……マタギの、原則や」
「原則」
「……自分の毛皮は、自分で、用意する」
「私は、用意していません」
「……だから、お前は、寒い」
「……身も蓋もないですね」
「……身も蓋もないのが、マタギや」
*
千綿は、震えながら、空を見上げた。
頭上の気嚢が、ゆっくりと、北に向かって流れていく。
——これは、まずい。
——このまま行くと、本当に、シベリアか、アラスカに着く。
——そして、たぶん、その前に、凍死する。
千綿は、考えた。
何か、ジェット気流を、変える方法はないか。
物理的には、人間が空気の流れを変えることは、不可能である。
しかし、不可能の中にいる時、人間は、不可能ではない方法に、頼り始める。
「……二門隊長」
「なんや」
「お願いをしてみては、いかがでしょうか」
「お願い、誰に」
「ジェット気流様に」
二門は、しばし、千綿を見た。
千綿は、震えながら、真顔だった。
「……お前、東大出やのに、それ言うんか」
「東大出だから、最後の選択肢として、申し上げています」
「最後の選択肢として、お願いするんか」
「他に、ありません」
「……まあ、ええわ。やってみるか」
二門は、空を見上げた。
そして、両手を、軽く合わせた。
「……ジェット気流様」
「お願いします」
「……ご機嫌、いかがでございましょうか」
「お願いします」
「……我々、不徳の致すところで、北に向かっておりますが」
「お願いします」
「……できましたら、東に、変わっていただけませんでしょうか」
「お願いします」
千綿が、横で、「お願いします」を、繰り返していた。
二門が、横目で、千綿を見た。
「お前、ええ感じに、伴奏してくれるな」
「ご祈祷には、唱和が、効果的とされています」
「学問的根拠あるんかい」
「ありません。私の個人的な感覚です」
「ええわ、続けよか」
二人は、しばらく、空に向かって、お願いを、続けた。
知里川は、毛皮の中で、無言だった。
しばらくして、知里川が、ぽつりと言った。
「……鯨、おる」
「は?」
「……下に、鯨、おる」
二人は、慌てて、下を見た。
雲の切れ間に、海が、見えた。
そして、その海の上を、巨大な、黒い影が、ゆっくりと、移動していた。
確かに、鯨であった。
「ほんまや、鯨や」
「鯨ですね」
「お前ら、なんで、こんな時に、鯨見つけるねん」
「……マタギは、目が、ええ」
「マタギ、便利やな」
「……鯨、捕りたい」
「捕られへんやろ、空から」
「……だから、悔しい」
「鯨、捕り損ねたから、悔しいんかい!」
千綿が、コンパスと地図を、確認した。
「……二門隊長」
「なんや」
「下に鯨がいる、ということは、つまり、我々は、まだ、日本近海にいます」
「……」
「具体的には、おそらく、福島沖、です」
「……福島」
「ええ、福島です」
「半日、飛んで、福島か」
「ええ、福島です」
「ジェット気流様、ご機嫌、悪すぎやろ!」
*
三人は、しばらく、空を、見上げていた。
寒さは、限界に近かった。
毛皮にくるまった知里川以外は、もう、感覚が、無くなりつつあった。
千綿は、目を、閉じた。
——ヤエお婆ちゃんが、言った。「どこにいても、いいから、生き残りなさい」と。
——参謀殿が、言った。「軍は、そういう仕組みや」と。
——整備兵長が、言った。「戻られた時に、名乗ります」と。
千綿は、思い出した。
皆、それぞれの場所で、生きている。
自分も、生きなければ、ならない。
千綿は、もう一度、目を開けた。
そして、もう一度、空に向かって、お願いをした。
「ジェット気流様、どうか、東に、お願いします」
二門も、続けた。
「お願いします」
知里川も、毛皮の中から、ぽつりと、続けた。
「……お願いします」
三人の声が、空に、消えていった。
——その時。
頭上の気嚢が、ゆっくりと、向きを、変え始めた。
そして、確かに、東に、流れ始めた。
千綿は、コンパスを確認した。
東を、指していた。
「……変わりました」
「変わったか」
「……変わった」
「ジェット気流様、ご機嫌、直ったんか」
「直ったようです」
「……信仰心、大事やな」
「物理現象は、ご機嫌で変わるものではありません」
「ロマンチック、ぶち壊しやんけ」
「ただし、変わった事実は、認めます」
雲は、東に、流れていた。
三機の鎗快も、東に、流れ始めた。
——そして、ここから、本当の太平洋横断が、始まる。
千綿は、震えながら、地図を、見た。
地図の上の、太平洋は、広大だった。
東の端に、アメリカが、小さく、描かれていた。
そこまで、約八千キロ。
風の速さで、約七十二時間。
——三日と、三晩。
千綿は、地図を、たたんだ。
そして、震える手を、両腕で、抱きしめた。
ジェット気流様の、ご機嫌は、いつまで続くか、誰にも、分からなかった。




