ジェット気流様、ご機嫌うかがい
出撃当日。
夜明け前、千葉の松林の発進場に、三機の鎗快と、三つの巨大な気嚢が、並んでいた。
気嚢は、ヤエお婆ちゃんたちが、半年かけて、貼り上げたものである。
和紙を、蒟蒻糊で、貼り合わせる。乾かす。また、貼り合わせる。また、乾かす。これを、何層も、繰り返す。一層、貼るのに、五人がかりで、十日かかる。十層、重ねるのに、百日。それから、何枚もの大きなパネルを、一枚一枚、繋ぎ合わせる。気密試験をして、穴があれば、また、貼り直す。
そうして、ようやく、一つの気嚢が、完成する。
直径は、二十メートル近くあった。月明かりの下で、白く、ゆっくりと、揺れていた。
千綿薫は、与圧電熱服を着ながら、その風船を見上げた。
「……綺麗ですね」
「……綺麗や」
「……綺麗や」
三人とも、しばらく、見上げていた。
整備兵長が、足元に駆け寄ってきた。
胸に、三つの新聞紙の包みを、抱えていた。
「皆様、蓄電池をお預かりしておりました。温まっております」
「温まってますか」
「私の体温で、五時間、温めました」
「五時間」
「これ以上、温めると、私の体温が下がりすぎます」
「整備兵長、お顔、青いですよ」
「予算の都合で、暖房設備が、ありませんでしたので」
「予算」
「予算です」
千綿は、新聞紙の包みを、受け取った。
ずしりと、温かかった。
確かに、整備兵長の体温が、染み込んでいた。
「……ありがとうございます」
「いえ、これが、私の役割です」
知里川が、自分の蓄電池を受け取りながら、低い声で言った。
「……いい体温や」
「お前、ほんま、なんでも『いい』言うな」
「……いい体温の人は、いい兵長や」
「兵長の人格まで褒めるな」
整備兵長は、丸い顔を、少しだけ赤くした。
「……兵長、お名前は」
千綿が、もう一度、尋ねた。
整備兵長は、首を振った。
「戻られた時に、名乗ります」
「……はい」
「お気をつけて」
「ええ、行ってきます」
整備兵長は、敬礼した。
三人も、敬礼を返した。
四つの敬礼が、夜明け前の松林の中で、しばし、止まっていた。
*
参謀殿が、発進場の隅に立っていた。
軍服姿に戻っていた。
二門が、参謀殿に近づき、敬礼した。
「行ってきます」
「……うん」
「行ってきます、参謀殿」
「うん」
参謀殿は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、敬礼を返した。
千綿は、参謀殿の顔を、見た。
無表情だった。
しかし、その目は、昨夜と同じ、湯飲みの中の酒を見つめていた時の目だった。
——参謀殿は、ワシらが帰ってこない場合を、想定している。
そう、思った。
しかし、千綿は、もう、それを悲しまなかった。
参謀殿は、参謀殿の場所で、生きている。
それで、いい。
*
三機の鎗快が、それぞれ、気嚢の下に吊られた。
紐は、巻き上げ式の滑車を介して、機体のサドルの横に、繋がっている。
切り離す時は、紐を切る。
それだけの、シンプルな機構である。
「ほな、行こか」
二門が、サドルに跨った。
千綿も、跨った。
知里川も、跨った。
整備兵長が、機体の下から、声をかけた。
「皆様、最後に、確認です」
「なんや」
「上空到達後、東風(ジェット気流)に乗れない場合は、潔く投降してください」
「潔く投降」
「ええ、潔く投降です」
「投降って、誰にやねん。空に、誰もおらんやろ」
「……それは、ご自分で、お考えください」
「投げっぱなしやな!」
「申し訳ありません。マニュアル通りに、申し上げました」
千綿が、淡々と訂正した。
「マニュアル通りに申し上げることが、整備兵長の職務ですので」
「お前まで、フォローするんかい」
整備兵長は、敬礼した。
そして、足元の重しを、外した。
気嚢が、ゆっくりと、上昇を始めた。
*
地上が、遠ざかっていった。
松林が、小さくなった。
参謀殿の姿が、点になった。
整備兵長の姿は、もう、見えなかった。
千綿は、上を見上げた。
雲が、近づいてきた。
「……雲、入りますね」
「入るな」
「視界、ゼロです」
「ゼロやな」
白い霧の中を、三機は、ゆっくり、上昇していった。
何分か、何十分か、分からない時間が、過ぎた。
そして。
ふっと、雲を、抜けた。
——青空が、広がっていた。
雲の上に、見渡す限りの、青。
太陽が、まぶしいほど、輝いていた。
下を見ると、雲海が、地平線まで、続いていた。
「……」
「……」
「……」
三人は、しばらく、何も言わなかった。
千綿が、ようやく、口を開いた。
「……綺麗ですね」
「綺麗やな」
「……綺麗や」
「ロマンチック、ぶち壊しの千綿が、綺麗言うとるで」
「事実、綺麗だからです。脳が、新しい視覚情報に、適応しました」
「適応の仕方、ロマンチックやんけ」
知里川が、雲海を見下ろしながら、ぽつりと言った。
「……山の上と、同じや」
「マタギ、空の上でも、同じこと言うんかい」
「……同じや」
「ちゃうやろ」
「……同じや」
千綿は、笑った。
笑った後、ふと、考えた。
ジェット気流に、乗れたのだろうか。
千綿は、コンパスを、確認した。
「……二門隊長」
「なんや」
「コンパスの針が、北を、指しています」
「北」
「我々は、北に、向かっています」
「……」
「西からの風に乗っているなら、東に向かっているはずです」
「……」
「北に向かっている、ということは」
千綿は、しばし、沈黙した。
そして、ゆっくり、続けた。
「……ジェット気流様の、ご機嫌、ええんでしょうか」
二門は、コンパスを覗き込んだ。
それから、空を見上げた。
青い空に、薄い雲が、ゆっくりと、流れていた。
——雲は、北に、流れていた。
二門は、しばらく、その雲を、見つめた。
そして、ぽつりと言った。
「……北行き、やんけ」
千綿は、頷いた。
「北行きですね」
「ジェット気流、東に行くもんちゃうんか」
「ええ、通常は」
「通常ちゃうんかい」
「我々が出撃する直前に、気流が、変わったようです」
「お婆ちゃんの和紙、無駄になるやんけ!」
「無駄、というか、北に行きます」
「北、どこ向いとんねん!」
千綿は、もう一度、コンパスを確認した。
それから、地図を取り出した。
しばし、地図と、コンパスと、空を、見比べた。
そして、淡々と、結論を述べた。
「……このまま行くと、アラスカ、もしくは、シベリアです」
「シベリア!」
「ロシアです」
「ロシア、敵やんけ!」
「ええ、敵です」
「アメリカ行く前に、ロシアに着くんかい!」
「届かないよりは、マシかもしれません」
「マシ、ちゃうわ!」
雲は、北に、ゆっくりと、流れていた。
三機の鎗快も、北に、ゆっくりと、流されていた。
ジェット気流様の、ご機嫌は、はっきり言って、悪かった。




