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出撃前夜と、一升

出撃の前夜。


千葉の松林の納屋に、参謀殿が訪ねてきた。


軍服ではなく、地味な背広姿であった。


そして、一升瓶を、一本、抱えていた。


「ようやく、お前らを送り出せる」


「お疲れさんです」


「ワシも、お疲れや。この作戦、立ち上げるのに二年かかった」


「二年」


「最初はな、誰も真面目に取り合うてくれへんかった。『風船で人を送る? あほか』言われて、三回くらい計画書を突き返された」


「三回」


「四回目に、ようやく通った」


千綿は、参謀殿に椅子を勧めながら、尋ねた。


「四回目で通ったのは、なぜですか」


参謀殿は、一升瓶を机に置きながら、淡々と答えた。


「上層部が、追い詰められとったからや」


「……身も蓋もないですね」


「身も蓋もないんや。せやから通った」


千綿は、しばし、その答えを噛みしめた。


参謀殿は、四つの湯飲みに、清酒を注いだ。


戦時下にしては、いい酒であった。どこから工面してきたのか、聞かなかった。聞いてはいけない種類の酒だと、千綿は本能で察した。



   *



「乾杯しよか」


「乾杯、なにに乾杯ですか」


「お前らに」


「……」


「成功したら、お前らは英雄や。失敗しても、お前らは英雄や」


「成功と失敗、両方とも英雄ですか」


「軍は、そういう仕組みや」


「……」


千綿は、何も言えなかった。


参謀殿は、糾弾しているのでも、自慢しているのでも、なかった。ただ、軍という仕組みを、そのまま、口にしただけだった。


二門が、湯飲みを手に取った。


「参謀殿」


「なんや」


「参謀殿は、ワシらが帰ってくると、思うとりますか」


参謀殿は、しばし、湯飲みの中の酒を見つめた。


それから、ゆっくり、答えた。


「……帰ってきたら、嬉しい」


「帰ってこなかったら」


「……それも、軍は、想定しとる」


「想定」


「想定通りや、っちゅうことになる」


二門は、頷いた。


それ以上、何も訊かなかった。


四つの湯飲みが、机の中央で合わさった。


カチン、と乾いた音がした。


参謀殿は、酒を、ゆっくり、飲み干した。


それから、もう一杯、自分で注いだ。


「……ワシも、二人、息子おってな」


千綿の手が、止まった。


「一人は、ガダルカナル」


「……」


「もう一人は、レイテや」


「……」


「お前らを送り出すんは、ワシの仕事や」


「……」


「ワシの仕事を、ワシは、毎日、している」


参謀殿は、それ以上、何も言わなかった。


ただ、もう一口、酒を飲んだ。


千綿は、湯飲みを、両手で、握りしめた。


——参謀殿も、ヤエお婆ちゃんと、同じ場所にいる人だ。


そう、思った。


息子を失い、それでも仕事を続けている人。仕事を続けるしかない、と知っている人。糾弾もせず、英雄視もせず、ただ、その日その日を、生きている人。


軍という仕組みの中にいながら、軍の業の、少しだけ、外側に出ている人。


それが、参謀殿だった。



   *



参謀殿が帰った後、三人だけになった。


一升瓶には、まだ酒が残っていた。三人で、もう一杯ずつ注いだ。


「……明日、出撃やな」


「ですね」


二門は、湯飲みの中の酒を、見つめた。


「正直、ワシ、まだ実感ないわ」


「私も、ありません」


千綿が、眼鏡を外して、机に置いた。


「実感が湧くのは、おそらく、雲を抜けて青空を見上げた瞬間でしょう」


「ロマンチックな言い方やな」


「いえ、医学的な話です。視覚情報が変わると、脳が新しい状況に、適応します」


「ロマンチック、ぶち壊しやんけ」


知里川が、湯飲みを傾けながら、ぽつりと言った。


「……ワシ、山行く前夜は、いつも、こんな感じや」


「山か」


「……山行ったら、帰ってこれるか、分からん」


「マタギは、毎晩、そんな覚悟しとんのか」


「……毎回や」


「ようそんな生活、続けられるな」


「……山が、好きや」


二門は、しばし黙った。


「……ワシらは、何が好きで、こんなことやっとるんやろな」


「軍命です」


「即答するな」


「事実です」


「事実は、認めとうない時もあるんや」


千綿は、湯飲みを置いて、天井を見上げた。


「……二門隊長、正直に言うていいですか」


「ええで」


「私、この作戦、成功すると、思っていません」


「……」


「半分くらいの確率で、太平洋のどこかで墜ちます」


「半分か」


「もう半分の確率で、アメリカに着く前に、凍死します」


「合計、百%やんけ」


「ええ、合計、百%です」


「お前、それ、ワシらの前で、言うてええんか」


「言わない方が、良かったですか」


「……いや、今夜くらいは、ええわ」


「ええんですか」


「ええ。明日からは、もう言うな」


「了解しました」


知里川が、無言で湯飲みを差し出した。


三人の湯飲みが、また、合わさった。


カチン。


「……飲もか」


「飲みましょう」


「……飲む」


夜は、ゆっくり、更けていった。



   *



真夜中、千綿は、便所に立った。


納屋の戸を開けると、外の冷気が、頬を刺した。


そして、納屋の前に、人影が、立っていた。


整備兵長であった。


胸に、新聞紙にくるまれた何かを、抱きしめていた。


「……整備兵長、こんな時間に、何を」


「蓄電池を、温めております」


「外で、ですか」


「中に入ると、皆様のお邪魔をいたしますので」


「中に入ってください。寒いでしょう」


「いえ、ここで結構です」


千綿は、整備兵長の、丸い目を、見た。


その目は、星明かりの下で、いつもより、少しだけ、明るく見えた。


「明朝、よろしくお願いいたします」


「……ええ、よろしくお願いします」


「皆様の蓄電池は、私の体温で、温めてあります」


「……」


「明朝、出撃直前まで、私が、温めております」


「……整備兵長」


「はい」


「我々は、行きます」


「ええ」


「ジェット気流に、乗ります」


「ええ」


「もし、戻ってきたら——」


「戻ってこられたら、名乗ります」


「……はい」


「お休みなさいませ」


千綿は、頷いた。


そして、納屋に戻った。


戸を閉める前に、もう一度、振り返った。


整備兵長は、相変わらず、星明かりの下で、蓄電池を抱きしめて、立っていた。


寒そうだった。


しかし、その姿は、奇妙に、温かかった。



   *



納屋の中に戻ると、二門と知里川は、もう寝息を立てていた。


千綿は、寝床に潜り込んだ。


天井の梁を、見上げた。


——明日、出撃。


——半分の確率で墜ちる。残りの半分で凍死する。


——合計、百%。


それでも、明日、自分は、飛ぶ。


ヤエお婆ちゃんが、「どこにいても、いい」と、言った。


参謀殿の息子は、二人とも、帰ってこなかった。


整備兵長は、外で、蓄電池を抱きしめて、立っている。


——皆、それぞれの場所で、生きている。


千綿は、目を閉じた。


千葉の松林の上に、星が、瞬いていた。


その星のさらに上、成層圏を、ジェット気流が、静かに、東へ流れていた。


ジェット気流様の、ご機嫌は、明朝、判明する予定であった。


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