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「お婆ちゃんと、紙の翼」

翌週、千綿薫は、二門治郎と知里川惣藏と共に、トラックの荷台に揺られていた。


行き先は、千葉県内のどこか、地図に載っていない村である。


「気嚢工場ゆうてもな、まあ、見たら分かる」


二門が、煙草をふかしながら言った。


「気嚢、ですか」


「太平洋を渡るための、風船や。鎗快を、ぶら下げる方の」


千綿は、改めて思い出した。


——そうだ。この機体は、太平洋を、自力で渡るのではない。


ジェット気流に乗せた風船にぶら下がって、アメリカ大陸まで運ばれる。そして、上空で気嚢を切り離し、機体だけで滑空して、爆撃する。


機体が「ちょっと飛べればいい」程度の性能でも、作戦が成立する理由は、そこにあった。


「ほな、気嚢、誰が作っとるか分かるか」


「……軍の工廠、ですか」


「ちゃう」


「民間の、軍需工場ですか」


「ちゃうな」


二門は、にっこり笑った。出てほしくない場面で、また出る笑顔であった。


「お婆ちゃんや」


「……お婆ちゃん」


「村の、お婆ちゃんや」



   *



トラックは、藁葺き屋根の集会所のような建物の前で止まった。


「鎗快気嚢製造所」と、達筆な墨書きの看板が、屋根の軒先に下がっていた。


風が吹くと、看板は揺れたが、裏返らなかった。釘が、ちゃんと二本打ってあった。


「ちゃんとした看板ですね」


「お婆ちゃんに頼んだら、釘二本やった。俺らの基地と、扱いが違うわ」


引き戸を開けると、中は、広い土間であった。


そして、土間一面に、白い和紙が広げられていた。


その和紙の上に、五人のお婆ちゃんが、しゃがみ込んでいた。


刷毛を持って、何かを塗っている。何かは、糊である。匂いで分かった。蒟蒻のような、独特の甘い匂いがした。


「あら、二門さん。お疲れさん」


一番奥にいた、いかにも村の長老格、というお婆ちゃんが顔を上げた。皺の中に、優しい目があった。


「ヤエさん、こんにちは。今日は新しい隊員、連れてきたで」


「ほう。これがあの、東京の偉い学生さんかい」


「元、です。今は、ただの軍人です」


「あらまあ、丁寧な子だね」


ヤエお婆ちゃんは、千綿の手を取った。皺だらけの、しかし力強い手であった。


「あんたが乗る風船はね、私たちが、一枚一枚、貼ってるんよ」


「……はい」


「蒟蒻糊でね、和紙を、何枚も重ねて、貼り合わせて、大きな袋にするの。針一本、穴一つ開いたら、漏れちゃうから」


千綿は、土間に広げられた和紙を見た。


うっすらと、糊が塗られていた。その上に、別の和紙が、丁寧に重ねられている。お婆ちゃんたちは、手の平で、空気を抜きながら、ゆっくりと押さえつけていた。


「……何時間かかるんですか、一つの気嚢に」


「うちらでね、五人で、十日かかる」


「十日」


「乾かしながらだから、急げないの。それから、また、貼り合わせる。何回も、何回も」


知里川が、土間の和紙の前で、しゃがみ込んだ。和紙に手を伸ばし、そっと撫でた。


「……綺麗な、紙や」


「ありがとさんね。(こうぞ)の、いい紙だよ。地元の山の、楮」


「……山の」


「あんたら、これに、命、預けるんだろ」


知里川は、頷いた。


「……預ける」


ヤエお婆ちゃんは、笑った。それから、少しだけ、目を細めた。


「だからね、丁寧に、貼ってるよ」



   *



千綿は、糊を塗らせてもらった。


刷毛を持って、和紙の上に、薄く、薄く、糊を伸ばす。簡単そうに見えて、難しかった。少しでも厚いと、乾いた時に、紙が波打つ。少しでも薄いと、剥がれる。


「あんた、不器用だねぇ」


「申し訳ありません」


「いいよ、いいよ。学生さんが、糊なんか塗らなくていいよ」


「いえ、自分が乗る機体です。少しでも、関わりたいです」


「あらまあ、いいこと言うね」


ヤエお婆ちゃんは、しばらく、千綿の手元を見ていた。


それから、ぽつりと言った。


「あんたら、生き残りなさい」


千綿の手が、止まった。


二門が、土間の隅で、煙草を消した。


「……ヤエさん」


「分かってるよ。帰り、書いてないんだろ。聞いたよ、上の人から」


「……」


「でもね。生き残りなさい。どこにいても、いいから。生き残りなさい」


土間が、静かになった。


お婆ちゃんたちの手も、止まっていた。


蒟蒻糊の、甘い匂いだけが、漂っていた。


千綿は、刷毛を握ったまま、何も言えなかった。


二門も、何も言わなかった。


知里川だけが、ぽつりと、低い声で言った。


「……生きる」


「うん」


「……必ず、生きる」


「うん。それでいい」


ヤエお婆ちゃんは、もう一度、笑った。


それから、立ち上がって、千綿の手を、もう一度、取った。


皺だらけの、しかし力強い手であった。


「生き残りなさい」


「……はい」


「どこにいても、いいからね」


千綿は、頷くしかなかった。


ヤエお婆ちゃんは、何も、渡さなかった。


護符も、握り飯も、千人針も、何も。


ただ、その言葉だけを、千綿の手の中に、置いた。



   *



帰りのトラックは、無言であった。


千綿は、膝の上で、両手を組んでいた。


何も、抱えていなかった。


ただ、ヤエお婆ちゃんの手の感触だけが、まだ、手のひらに残っていた。


二門は、煙草もふかさず、ただ、運転していた。


知里川は、荷台の縁に座って、流れていく田圃を見ていた。


しばらくして、二門が、ぽつりと言った。


「ヤエさんな、息子さん、二人とも、戦死しとんねん」


「……」


「南方や。サイパンと、ガダルカナル」


「だから、あの人、若いもんに、もう死んでほしくないんや。たぶん、な」


「……」


「せやのに、毎日、命がけの和紙、貼っとる」


二門は、少しの間、黙った。


ハンドルを握り直してから、低い声で、続けた。


「……サイパンが、落ちた。次は、本土や」


千綿は、何も言えなかった。


「ヤエさんは、たぶん、感づいとる。日本にも、もう、安全な場所は、無くなるかもしれんって」


「……」


「『どこにいても、いい』っちゅうのは、たぶん、そういうことや」


千綿は、組んだ手を、見下ろした。


——あの人は、自分も、生き残る気だ。


そう、思った。


しかし、同時に、こうも思った。


——生き残れるかどうかは、あの人にも、分からない。


息子を二人失って、本土が戦場になるかもしれないと知って、それでも、毎日、和紙を貼っている。


生きるために、貼っている。


生き残れないかもしれないと、心のどこかで知りながら。


そして、若い者にも、生きろと言う。


日本にいたら、もう、生きられないかもしれない、と感じながら。


——「どこにいても、いい」。


その言葉は、祝福であった。


そして、もしかすると、呪いでもあった。


——日本に、帰る場所は、無くなるかもしれない。


千綿は、その重さを、両手で受け止めるようにして、組み直した。


「……二門隊長」


「なんや」


「我々は、生き残らなければ、なりません」


「……せやな」


「どこにいても、生き残ります」


「……うん」


二門は、答えなかった。


ただ、ハンドルを握る手に、ほんの少し、力がこもったのが、見えた。


トラックは、千葉の田舎道を、ゆっくりと走った。


膝の上には、何も、無かった。


ただ、ヤエお婆ちゃんの言葉だけが、そこにあった。


ずしりと、重かった。


そして、まだ、温かかった。


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