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「お漏らしと、片道切符」

翌朝、千綿薫は寝不足の目で格納庫に向かった。


昨夜は眠れなかった。布と竹で太平洋を渡る、という命令を反芻するたびに、天井が遠のいた。


格納庫では、知里川惣藏が機体の前にしゃがみ込み、無言で布を撫でていた。撫でながら、時々、匂いを嗅いでいた。


「……知里川くん。何をしているんですか」


「……匂い」


「匂い」


「……変な匂いがする」


千綿は機体に近寄った。鼻を近づける。


確かに、何か、嗅いだことのある匂いがした。古い倉庫のような、それから、何か別のものが混じったような。


そこへ、二門治郎が茶碗を片手に現れた。


「おはようさん。何しとるん」


「二門隊長。この布、何の匂いですか」


「あー、それな」


二門は茶を一口すすった。


「お下がりや」


「お下がり」


「もとはパラシュートやってん。落下傘部隊が使うたやつ。それを洗って、また使う。再生やな」


「再生」


千綿は、もう一度、布を見た。


黄ばみは、点々と、機体全体に散っていた。洗ってもなお残る、黄ばみであった。


「……二門隊長」


「なんや」


「落下傘部隊の方々は、降下中、緊張で、その」


「言うな」


「言わせてください。我々は、その、結果が染み込んだ布で、太平洋を渡るのですか」


「言うな言うてるやろ。気にしたら飛ばれへんやろが」


知里川が、深く頷いた。


「……戦友の汗や」


「汗ちゃうやろ」


「……汗ということにしておく」


「お前、ええ奴やな」


千綿は眼鏡を外して拭いた。拭いても、目の前の布は変わらなかった。



   *



「ほな、操縦の話、しよか」


二門は機体の真横に立ち、サドルを叩いた。


「まず、お前ら、操縦桿どこにあるか分かるか」


千綿は機体を見回した。


布の翼。竹の骨。自転車のサドル。ペダル。エンジン。


無かった。


「……無いですね」


「無いやろ」


「飛行機に、操縦桿が、無いんですか」


「無いんや」


「どうやって、曲がるんですか」


二門は、にっこり笑った。昨日と同じ笑顔である。出てほしくない場面で出る笑顔である。


「体重移動や」


「体重」


「右行きたかったら、体を右に倒す。左行きたかったら、左に倒す。簡単やろ」


「……簡単ですね、概念としては」


「概念だけや」


「やはり」


知里川がサドルに跨ってみた。跨って、体を右に倒した。機体全体が、ぎしりと右に傾いた。


「……動く」


「動くやろ」


「……でも、これ、強い風吹いたら」


「うん」


「……勝手に倒れる」


「倒れるな」


「……どうする」


「気合いや」


千綿は天井を仰いだ。


「二門隊長。先程、概念は簡単と申し上げました。撤回します。概念から、おかしいです」


「せやけど、これしか無いんや。我慢してくれ」


「我慢の範疇を、超えていませんか」


「超えとるけど、命令や」


知里川はサドルに跨ったまま、何度か体を傾けて、機体の挙動を確かめていた。それから、満足げに呟いた。


「……熊撃ちと、同じや」


「熊撃ちと一緒にすな」


「……息を、止める。重心、低く。それで、当てる」


「……当てるんちゃう、飛ぶんや」


「……同じや」


「同じちゃうわ」


千綿は、知里川の表情を見た。真剣であった。本気でこの機体で飛ぶつもりの顔であった。


——この男、もしかすると、飛ぶかもしれない。


千綿は、初めて、わずかな希望を持った。



   *



「で、何乗せるんですか、これに」


千綿は、機体の腹を見た。


サドルの下に、何かを吊るすための金具があった。鉤のような形をしている。


「爆弾や」


「爆弾」


「十五キロ爆弾、一発」


「……一発」


「うん」


千綿は計算した。学生時代、航空力学の本くらいは読んだことがある。


「二門隊長。この機体、自重がいくらですか」


「四十キロ弱や」


「人間、約六十キロ。爆弾、十五キロ。合計、百十五キロ」


「せやな」


「二十八ccのエンジンで、百十五キロを、飛ばすのですか」


「飛ばすんや」


「物理的に、可能なのですか」


「人力で補えば、可能や」


「人間が、爆弾抱えて、走るのですか」


「そうや」


千綿は、自分の細い脚を見下ろした。それから、十五キロという重さを想像した。


「……十五キロで、何が爆撃できるんですか」


「アメリカや」


「いえ、ですから、十五キロで何が破壊できるかという話を」


「アメリカを爆撃するんや」


「……話が、噛み合っていません」


「噛み合っとる。アメリカ本土に、十五キロの爆弾を、落とすんや。それが命令や」


二門の声に、初めて、少し低いものが混じった。


千綿は気づいた。


二門も、この命令の馬鹿馬鹿しさは分かっている。分かった上で、笑って、引き受けている。


「……二門隊長」


「なんや」


「失礼しました」


「ええよ。俺かて、最初聞いた時、笑うたわ」


知里川が、ぽつりと言った。


「……一発でも、落とせば、向こうは慌てる」


「せや。それでええんや」


千綿は、なるほど、と思った。


破壊が目的ではない。届く、という事実が目的なのだ。アメリカ本土に、日本の爆弾が届く。その一点が、政治的に、戦略的に、意味を持つ。


理屈は、分かった。


理屈は分かったが、しかし。


千綿は、もう一つ、訊かなければならないことがあった。


「二門隊長」


「なんや」


「我々は、爆弾を落とした後、どうやって、日本に帰るのですか」


二門は、茶を飲み干した。


茶碗を、ゆっくり、机に置いた。


そして、千綿を見た。


「千綿よ」


「はい」


「お前、ええ質問するな」


「……質問に、答えてください」


「資料、見るか」


二門は机の引き出しから、薄い書類の束を取り出した。


表紙に「鎗快攻撃隊 作戦要綱」と書かれている。


千綿は受け取り、めくった。


機体仕様。ロサンゼルス上空までの航続距離。ジェット気流の利用。爆撃高度。投下手順。


そして。


そこで、書類は、終わっていた。


千綿は、もう一度、最初からめくった。最後まで読んだ。


帰投手順の項目が、無かった。


「……二門隊長」


「うん」


「帰投の手順が、書いてありません」


「書いてないやろ」


「印刷漏れですか」


「ちゃうわ」


「……では」


「最初から、書いてへんのや」


千綿は、書類を、そっと机に置いた。


そして、眼鏡を外した。


拭かなかった。今度はもう、拭く気力も無かった。


「……片道切符ですか」


「せや」


「最初から、帰る予定が、無い」


「無い」


知里川が、低く呟いた。


「……帰り、自分で考えろってことか」


「そういうこっちゃ」


格納庫の中が、静かになった。


外で、風が吹いた。


納屋にぶら下がった看板が、くるりと裏返る音がした。


「肥料置場」の面が、風に揺れていた。


千綿は、空を見上げた。


格納庫の屋根しか、見えなかった。


しかし、その向こうに、太平洋があった。


そして、その遥か向こうに、アメリカがあった。


——帰り、自分で考えろ。


千綿は、生まれて初めて、軍に対して、心の中で深く、深く、敬礼をしたい気分になった。


ただし、敬礼の方向は、上ではなく、下であった。


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