表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/20

「鎗快、爽快ならず」

滑走路を、全力で走っていた。


飛行機を、抱えて。


「足、止めるなや! 止めたら死ぬで!」


前を走る隊長の二門治郎が、振り返りもせずに叫ぶ。


千綿薫は、必死で脚を動かした。背中の二十八ccエンジンが、頼りなくブルブルと唸っている。


草刈り機の音だった。


布の翼が、頭上でバタバタとはためく。自転車のサドルが、股の下でガタガタ揺れる。車輪は、無い。だから走る。人間が、走る。


「揚力ッ、まだ出えへんのかッ」


「出ません! 脚が、先に死にますッ」


千綿は、二十四歳である。東京帝国大学の、元学生である。


一週間前まで、自分が千葉の畑を、布の翼を抱えて全力疾走する未来など、想像したこともなかった。


「惣藏は飛んだやろ! お前も飛べ!」


「知里川は、マタギです! 私は、本の虫ですッ」


畑の終わりが、近づいてくる。その先は、松林だ。


飛ぶか。刺さるか。二つに一つ。


足の裏が、ふっと軽くなった。


地面が、無い。


「……あ」


浮いた、と思った瞬間。


翼が、傾いた。曲げたくない方向に、体が傾いていた。


鎗快は、優雅さの欠片もなく、松林に向かって滑空した。


そして、一番手前の松に、見事に、引っかかった。


ガサガサガサッ、と派手な音を立てて、布の翼が枝に絡まる。千綿は、サドルにしがみついたまま、地上三メートルの高さで、ぶらりと宙吊りになった。


「……」


「……生きとるか」


下から、二門の声がした。


「……生きています。ただ、松脂が、軍服に付きました」


「洗濯、自分でやれよ」


「そういう問題ですか、これは」


松の枝の上で、千綿は思った。


なぜ、こうなった。


なぜ自分は、車輪も操縦桿も無い、布でできた飛行機で、松の木に刺さっているのか。


話は、一週間前にさかのぼる。



   *



昭和十九年、秋。


千葉県のどこか、地図にも載っていない松林の中に、その基地はあった。


「鎗快攻撃隊本部」と墨書された板が、釘一本で納屋にぶら下がっている。


風が吹くと、板がくるりと裏返って「肥料置場」と書かれた面が見えた。


千綿薫は無言で板を元に戻し、納屋の引き戸を開けた。


中では、二門治郎が長机に向かって、茶をすすっていた。日に焼けた、頑丈そうな男である。


「あ、千綿か。待っとったで。隊長の二門や」


「副隊長を拝命しました、千綿薫です。……隊長、おいくつですか」


「二十六や」


「私は二十四です。たった二つ違いの上下関係に、何の意味があるんでしょう」


「軍隊っちゅうのは、そういうもんや。意味、求めんといてくれ」


二門は茶を飲み干した。


そこへ、引き戸の向こうから、ぬっと影が現れた。


背の高い、日に焼けた男だった。何か大きな荷物を担いでいる。担いでいるものが、何なのかよく分からない。毛皮のような、罠のような、何かである。


「……知里川惣藏。秋田から来た」


「ようこそ。それ、何持ってきたん」


「……熊罠」


「熊罠」


「……たぶん使う」


「使わんと思うで」


知里川は無言で頷き、納屋の隅に熊罠を置いた。置く時に、ガチャリと不穏な音がした。


三人は揃った。鎗快攻撃隊、編成完了の瞬間である。


「ほな、まずは現物見に行こか」



格納庫と呼ばれる、これまた納屋っぽい建物の中に、それはあった。


三機、並んでいた。


「……これですか」


「これやな」


千綿は眼鏡を外し、レンズを丁寧に拭いてから、もう一度かけ直した。


それでも、目の前の機体は変わらなかった。


竹で組まれた三角形の骨組み。そこに張られているのは、布である。絹のような、しかし所々に薄っすらと黄ばんだシミがある布だ。下に吊られているのは、自転車のサドルと、ペダルと、それから猫の額ほどのエンジンであった。


「正式名称、〇五式軽偵察機。通称、鎗快や」


「軽……偵察機」


「もともとは、戦車隊や砲兵が前線で使う偵察機として開発されたんや。歩兵が空から敵情を見たい、っちゅう真っ当な需要があった」


「コンセプト自体は、合理的ですね」


「せやろ。ええ機体やねん、本来は」


千綿は改めて機体を眺めた。布の翼、自転車のサドル、おもちゃのようなエンジン。


「……本来は、ですね」


「うん」


「現状は、車輪の無い自転車に、翼を付けたものに見えますが」


「現場の需要を満たしながら、予算の制約も満たした結果や」


「予算の制約が、九割九分を占めていませんか」


「言うな」


知里川が機体に近寄り、エンジンを覗き込んだ。しばらく見つめた後、ぽつりと言った。


「……草刈機」


「草刈機ちゃうわ。一応、飛行機や」


「……二十八cc」


「ツーサイクル」


「空冷」


二人の声が、重なった。


「お前ら、ハモるなや。心折れるやろ」


千綿は機体の翼に触れた。指で押すと、布はしっとりと指を押し返した。


それから、車輪のあるべき場所を見下ろした。


「……二門隊長。車輪が、ありません」


「あー、それな」


「飛行機の、車輪が、ありません」


「無いんや」


「どうやって、離陸するんですか」


二門は、にっこり笑った。笑顔が出る場面ではない。


「走るんや」


「走る」


「機体抱えて、全力で走る。エンジンが、ちょっと手伝ってくれる。揚力が出たら、足離して、そのまま空へ」


「……人力ですか」


「人力や」


「二十八ccのエンジンは、何のためにあるんですか」


「ちょっと手伝うためや。あくまでも主力は、お前の脚や」


千綿は、自分の脚を見下ろした。学生時代から運動はあまりしていない、白く細い脚であった。


知里川は機体の各部を撫でていた。それから、満足げに頷いた。


「……ええ機体や」


「お前、ほんま、ええ機体やゆうな」


「……足腰、鍛えなあかん」


「そっちかい」


千綿は、もう一度、眼鏡を外して拭いた。


拭いて、かけ直した。


それでも、目の前の機体は変わらなかった。竹と、布と、自転車のサドルと、草刈り機のエンジン。


「……二門隊長」


「なんや」


「我々は、これで、何をするのですか」


二門は、格納庫の壁に貼られた一枚の地図を、指差した。


太平洋が、描かれていた。その、遥か向こう。


「アメリカや」


「……アメリカ」


「アメリカ本土を、爆撃しに行く」


千綿は、しばらく無言だった。


竹の骨組みを見た。お漏らしのような黄ばみのある布を見た。自転車のサドルを見た。草刈り機のエンジンを見た。


そして、地図の太平洋を見た。


「……正気ですか」


「正気や」


「これで、太平洋を、渡るのですか」


「渡るんや」


千綿は、三度、眼鏡を外した。


今度は、もう、かけ直さなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ