「鎗快、爽快ならず」
滑走路を、全力で走っていた。
飛行機を、抱えて。
「足、止めるなや! 止めたら死ぬで!」
前を走る隊長の二門治郎が、振り返りもせずに叫ぶ。
千綿薫は、必死で脚を動かした。背中の二十八ccエンジンが、頼りなくブルブルと唸っている。
草刈り機の音だった。
布の翼が、頭上でバタバタとはためく。自転車のサドルが、股の下でガタガタ揺れる。車輪は、無い。だから走る。人間が、走る。
「揚力ッ、まだ出えへんのかッ」
「出ません! 脚が、先に死にますッ」
千綿は、二十四歳である。東京帝国大学の、元学生である。
一週間前まで、自分が千葉の畑を、布の翼を抱えて全力疾走する未来など、想像したこともなかった。
「惣藏は飛んだやろ! お前も飛べ!」
「知里川は、マタギです! 私は、本の虫ですッ」
畑の終わりが、近づいてくる。その先は、松林だ。
飛ぶか。刺さるか。二つに一つ。
足の裏が、ふっと軽くなった。
地面が、無い。
「……あ」
浮いた、と思った瞬間。
翼が、傾いた。曲げたくない方向に、体が傾いていた。
鎗快は、優雅さの欠片もなく、松林に向かって滑空した。
そして、一番手前の松に、見事に、引っかかった。
ガサガサガサッ、と派手な音を立てて、布の翼が枝に絡まる。千綿は、サドルにしがみついたまま、地上三メートルの高さで、ぶらりと宙吊りになった。
「……」
「……生きとるか」
下から、二門の声がした。
「……生きています。ただ、松脂が、軍服に付きました」
「洗濯、自分でやれよ」
「そういう問題ですか、これは」
松の枝の上で、千綿は思った。
なぜ、こうなった。
なぜ自分は、車輪も操縦桿も無い、布でできた飛行機で、松の木に刺さっているのか。
話は、一週間前にさかのぼる。
*
昭和十九年、秋。
千葉県のどこか、地図にも載っていない松林の中に、その基地はあった。
「鎗快攻撃隊本部」と墨書された板が、釘一本で納屋にぶら下がっている。
風が吹くと、板がくるりと裏返って「肥料置場」と書かれた面が見えた。
千綿薫は無言で板を元に戻し、納屋の引き戸を開けた。
中では、二門治郎が長机に向かって、茶をすすっていた。日に焼けた、頑丈そうな男である。
「あ、千綿か。待っとったで。隊長の二門や」
「副隊長を拝命しました、千綿薫です。……隊長、おいくつですか」
「二十六や」
「私は二十四です。たった二つ違いの上下関係に、何の意味があるんでしょう」
「軍隊っちゅうのは、そういうもんや。意味、求めんといてくれ」
二門は茶を飲み干した。
そこへ、引き戸の向こうから、ぬっと影が現れた。
背の高い、日に焼けた男だった。何か大きな荷物を担いでいる。担いでいるものが、何なのかよく分からない。毛皮のような、罠のような、何かである。
「……知里川惣藏。秋田から来た」
「ようこそ。それ、何持ってきたん」
「……熊罠」
「熊罠」
「……たぶん使う」
「使わんと思うで」
知里川は無言で頷き、納屋の隅に熊罠を置いた。置く時に、ガチャリと不穏な音がした。
三人は揃った。鎗快攻撃隊、編成完了の瞬間である。
「ほな、まずは現物見に行こか」
格納庫と呼ばれる、これまた納屋っぽい建物の中に、それはあった。
三機、並んでいた。
「……これですか」
「これやな」
千綿は眼鏡を外し、レンズを丁寧に拭いてから、もう一度かけ直した。
それでも、目の前の機体は変わらなかった。
竹で組まれた三角形の骨組み。そこに張られているのは、布である。絹のような、しかし所々に薄っすらと黄ばんだシミがある布だ。下に吊られているのは、自転車のサドルと、ペダルと、それから猫の額ほどのエンジンであった。
「正式名称、〇五式軽偵察機。通称、鎗快や」
「軽……偵察機」
「もともとは、戦車隊や砲兵が前線で使う偵察機として開発されたんや。歩兵が空から敵情を見たい、っちゅう真っ当な需要があった」
「コンセプト自体は、合理的ですね」
「せやろ。ええ機体やねん、本来は」
千綿は改めて機体を眺めた。布の翼、自転車のサドル、おもちゃのようなエンジン。
「……本来は、ですね」
「うん」
「現状は、車輪の無い自転車に、翼を付けたものに見えますが」
「現場の需要を満たしながら、予算の制約も満たした結果や」
「予算の制約が、九割九分を占めていませんか」
「言うな」
知里川が機体に近寄り、エンジンを覗き込んだ。しばらく見つめた後、ぽつりと言った。
「……草刈機」
「草刈機ちゃうわ。一応、飛行機や」
「……二十八cc」
「ツーサイクル」
「空冷」
二人の声が、重なった。
「お前ら、ハモるなや。心折れるやろ」
千綿は機体の翼に触れた。指で押すと、布はしっとりと指を押し返した。
それから、車輪のあるべき場所を見下ろした。
「……二門隊長。車輪が、ありません」
「あー、それな」
「飛行機の、車輪が、ありません」
「無いんや」
「どうやって、離陸するんですか」
二門は、にっこり笑った。笑顔が出る場面ではない。
「走るんや」
「走る」
「機体抱えて、全力で走る。エンジンが、ちょっと手伝ってくれる。揚力が出たら、足離して、そのまま空へ」
「……人力ですか」
「人力や」
「二十八ccのエンジンは、何のためにあるんですか」
「ちょっと手伝うためや。あくまでも主力は、お前の脚や」
千綿は、自分の脚を見下ろした。学生時代から運動はあまりしていない、白く細い脚であった。
知里川は機体の各部を撫でていた。それから、満足げに頷いた。
「……ええ機体や」
「お前、ほんま、ええ機体やゆうな」
「……足腰、鍛えなあかん」
「そっちかい」
千綿は、もう一度、眼鏡を外して拭いた。
拭いて、かけ直した。
それでも、目の前の機体は変わらなかった。竹と、布と、自転車のサドルと、草刈り機のエンジン。
「……二門隊長」
「なんや」
「我々は、これで、何をするのですか」
二門は、格納庫の壁に貼られた一枚の地図を、指差した。
太平洋が、描かれていた。その、遥か向こう。
「アメリカや」
「……アメリカ」
「アメリカ本土を、爆撃しに行く」
千綿は、しばらく無言だった。
竹の骨組みを見た。お漏らしのような黄ばみのある布を見た。自転車のサドルを見た。草刈り機のエンジンを見た。
そして、地図の太平洋を見た。
「……正気ですか」
「正気や」
「これで、太平洋を、渡るのですか」
「渡るんや」
千綿は、三度、眼鏡を外した。
今度は、もう、かけ直さなかった。




