北の山と、見送る空
砂漠の真ん中で、皆がそれぞれの方向に別れた。
ジョーンズはビリーを馬の前に乗せ、北東のドライ・ウェルに戻り始めた。
「無事に帰れ」
ジョーンズはそれだけ言って、馬を走らせた。
千綿は二門に振り返った。
「二門隊長は、村に戻ってください」
「ええんか、ワシ行かんで」
「三人乗りでも鎗快は、ぎりぎりです。四人乗りは無理です」
「ほな、頼むわ」
「ええ、行ってきます」
二門は、ジョーンズの後ろ姿をしばし見送った。
それから村の方角を向いて、ゆっくり歩き始めた。
ソンブレロをかぶった、関西弁の元日本軍隊長が、砂漠を一人で歩く姿は奇妙だった。
しかしメキシコの砂漠では、誰もそれを奇妙とは思わなかった。
*
鎗快のサドルに、知里川が跨った。
その後ろに千綿が乗った。
千綿の前に、ディエゴを抱いた。
ディエゴは祖父の骨の入った木の箱を、両手で抱きしめていた。
「……重いです」
「重いか」
「ディエゴくんと骨が、合わせて」
「マタギ、飛ばせるか」
「……飛ばす」
「ありがとうございます」
エンジンをかけた。
ピロロロロ。
草刈り機の音だった。
鎗快はゆっくりと走り出した。
砂漠の、平らな部分を滑走路にした。
走り、走り、走った。
そして、ふわりと浮いた。
機体はゆっくりと、北を目指して飛び始めた。
*
高度、千メートル。
下に砂漠が、地平線まで広がっていた。
「……知里川くん」
「……なんや」
「北、見えますか」
「……見える」
「アリゾナの、高い山」
「……あれや」
知里川が遠く、北の方角を指さした。
地平線の向こうに、薄く青い影が見えた。
雪を被った高い山だった。
「……綺麗ですね」
「……綺麗や」
ディエゴは千綿の前で、しばしその山を見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「アブエロ」
「……『おじいちゃん』、ですね」
「シ」
「もうすぐ着きます」
「シ」
*
二時間ほど飛んで、鎗快は山の麓に着陸した。
ここから先は人間の足で登る。
山頂までは約三時間の登山だった。
知里川は機体の整備をして、麓に残った。
「……ワシ、待つ」
「ええ、お願いします」
千綿とディエゴは、山を登り始めた。
ディエゴは痩せていたが、足が強かった。
メキシコの片田舎で育った少年の脚力は、東大出の千綿よりも、ずっと強かった。
「……千綿さん」
「ええ」
「速いですよ」
「ええ、すみません」
「……ディエゴくん、健脚ですね」
*
山頂近くに小さな墓地があった。
石を積み上げただけの、簡素な墓だった。
しかしよく見ると、何十、いや、何百もの石が積まれていた。
ディエゴの何代もの祖先の墓だった。
ディエゴは墓の前にしゃがみ込んだ。
そして、木の箱を開けた。
中に白い骨と灰が入っていた。
ディエゴは骨と灰を、墓の石の隙間に丁寧に置いた。
そして両手を合わせた。
千綿もその隣にしゃがんで、両手を合わせた。
スペイン語が分からない祈りはできなかった。
しかし千綿は心の中で、ヤエお婆ちゃんの言葉を唱えた。
——どこにいても、いい。
——生き残りなさい。
——ディエゴくんが生き残るように。
ディエゴはしばらく祈っていた。
それから、ゆっくり立ち上がった。
涙は流していなかった。
ただ目が少し、赤くなっていた。
「……グラシアス、チワワ」
「ええ」
「ありがとう」
「ええ、ありがとう」
千綿はディエゴの肩に手を置いた。
メキシコの少年の肩は痩せていたが、温かかった。
*
山を降りて、麓で知里川と合流した。
鎗快にまた、三人乗りで乗り込んだ。
機体はエンジンをかけて、ゆっくり南へ向けて飛び始めた。
ディエゴは千綿の前で、空を見ていた。
「……チワワ」
「ええ」
「もう、ない」
「ない、ですか」
「グランパ、ない」
千綿はしばし、何も言わなかった。
それから、ぽつりと答えた。
「……ディエゴくんの心の中にはいます」
「シ」
「お墓には骨があります」
「シ」
「だからたぶん、これからもずっと、近くにいます」
ディエゴは、しばし考えた。
それから、頷いた。
「シ。ありがとう」
*
鎗快は南へ、ゆっくりと飛び続けた。
下にはアリゾナの砂漠が広がっていた。
ジェット気流ではなく、ただの低空の風が機体を運んでいた。
夕方近くなって、機体はメキシコ側に入った。
国境という線は、空からは見えなかった。
ただ知里川の感覚で、「ここから、メキシコや」と分かった。
「……マタギ、国境も分かるんですか」
「……空気が変わる」
「変わりますか」
「……ええ空気や」
「お前、メキシコの空気もええ言うんかい」
「……ええもんはええ」
*
その頃。
ドライ・ウェルの町に、ジョーンズはビリーを連れて戻ってきていた。
パン屋のメアリーはビリーを抱きしめて、泣いた。
「ビリー、馬鹿野郎! 心配したよ!」
「ごめん、母ちゃん」
「もう、二度と、砂漠に行くんじゃないよ」
「ごめん」
ジョーンズはメアリーに、軽く頷いた。
そして、保安官事務所に戻った。
ライフルを机に立てかけた。
弾は入っていなかった。
ジョーンズはコーヒーを入れた。
そして、椅子に座った。
——疲れた。
ジョーンズはしばし、コーヒーを見つめた。
それから報告書を書こうとして、紙とペンを出した。
しかし、しばし書き始められなかった。
——あの、日本軍の三人。
——あの、奇妙な飛行機。
——あの、メキシコの少年。
——書くのか。
——書かないのか。
ジョーンズはしばし、ペンを握ったまま考えた。
それから、ペンを置いた。
そして、報告書にはこう書いた。
「ビリー、発見。保護。健康に問題なし」
それだけだった。
砂漠で何があったかは、書かなかった。
奇妙な飛行機のことも、書かなかった。
日本人三人のことも、書かなかった。
*
ジョーンズは報告書を、ファイルに戻した。
そして、ふと立ち上がった。
事務所の窓から、外を見た。
夕陽が町の屋根を、赤く染めていた。
ジョーンズは目を細めて、空を見上げた。
——あれだ。
南の空に、小さな黒い点が見えた。
奇妙な飛行機だった。
布と、竹と、自転車のサドルでできた飛行機。
その飛行機はゆっくりと、南に向かって飛んでいた。
ジョーンズはしばし、それを見た。
——無事に帰ったようだ。
ジョーンズは心の中だけで、つぶやいた。
そして口元にわずかに、笑みを浮かべた。
それから、コーヒーをまた一口、飲んだ。
コーヒーはもう、冷めていた。
しかしジョーンズは、気にしなかった。
ただ、空を見続けた。
奇妙な飛行機が地平線の向こうに、小さくなって消えるまで。
それから、ジョーンズはまた椅子に座った。
——あいつらのことは、報告書には書かない。
——もう、たぶん会うこともない。
ジョーンズはそう思った。
——たぶん、それでいい。
夕陽がドライ・ウェルの町に、ゆっくりと沈んでいった。




