ディエゴ、祖父を運ぶ
鎗快が倉庫に運ばれてから、十日が経った。
千綿薫、二門治郎、知里川惣藏の三人は、メキシコの片田舎の村で、奇妙な日常を始めていた。
朝はホセの蒸留所で、ライム水を飲んだ。
昼はマヌエルの作業場で、鎗快の修理を手伝った。
夕方は村の広場で、子供たちと過ごした。
夜はホセの蒸留所の二階で、テキーラを少しだけ飲んで、眠った。
千綿は片言のスペイン語が、少しずつ上達していた。
二門は関西弁のまま、何とか会話を成立させていた。
知里川は相変わらず、毛皮の中で寡黙だった。
しかし三人は、メキシコの村人たちと、確実に馴染んでいた。
*
十日目の夕方、千綿はいつものように、村の広場で子供たちに囲まれていた。
しかしその日は、いつもより子供たちの数が少なかった。
「……二門隊長」
「うん」
「子供たちが少ないです」
「気のせいやろ」
「いえ、目の大きな少年がいません」
「あの、痩せた子か」
「ええ、ディエゴくんです」
千綿は最近、彼の名前を知った。
ディエゴ。十二歳。村の北の端に、祖父と二人で住んでいた。
両親は数年前に亡くなっていた、と聞いた。
ディエゴはいつも夕方の広場に来ていた。
知里川の毛皮を撫でて、千綿に「いつか飛びたい」と言うのが、彼の日課だった。
しかしその日は、来なかった。
*
翌朝、村の広場で、ペドロが慌てた様子で走ってきた。
「オーラ、ヒロニモン! チワワ、ジェロニモ、チリカワ! 大変や!」
「どうしました」
「ディエゴのおじいさんが亡くなった」
千綿は、しばし絶句した。
「……いつですか」
「昨日の夜や」
「ディエゴくんは」
「家におるけど、口きかへん」
「お悔やみを伝えたいです」
「行こか。皆で行く」
三人はペドロに連れられて、村の北の端の、小さな家に向かった。
*
家の中は薄暗かった。
土間に簡素な木の棺が置かれていた。
棺の中に痩せた老人が横たわっていた。
ディエゴの祖父だった。
ディエゴは棺の隣に座って、無言で祖父の顔を見ていた。
千綿はディエゴの前に、ゆっくり座った。
そして、片言のスペイン語で言った。
「ロ・シエント、ディエゴ」
「『お悔やみ申し上げます』、です」
二門と知里川も千綿の隣に座って、ゆっくり頭を下げた。
ディエゴは、しばらく何も言わなかった。
それから、千綿の方を見た。
そして、何かぽつりと言った。
スペイン語だった。
千綿には半分しか分からなかった。
ペドロが、横で通訳した。
「ヒー・セッド……ジ・グランパ、ハッド・ア・ウィッシュ」
「『おじいさんに、最後の願いがあった』、と」
「願い、ですか」
ペドロはディエゴに、もう一度何か尋ねた。
ディエゴは棚から、布の包みを取り出した。
中から、小さな木の箱が出てきた。
「ジス・ボックス。ヒー・セッド、テイク・ジス・トゥ……」
ディエゴは北の方を指さした。
「ノース。ファー、ノース」
「北、遠い北、ですか」
「アメリカ、ハイ・マウンテン。アンセスター・グレイブ」
千綿は、しばし考えた。
そして二門と知里川に通訳した。
「ディエゴくんのおじいさんの遺言は——」
「うん」
「自分の骨を、北の遠い場所——アメリカの高い山にある、先祖の墓に運んでくれ、と」
「アメリカ、かい」
「ええ、アメリカのどこか、高い山です」
「国境、越えるんか」
「越えると思います」
「子供一人で行くんか」
「……行くと言っているようです」
*
ディエゴは木の箱を、両手でぎゅっと握った。
そして千綿に、何か言った。
ペドロが通訳した。
「アイ・ゴー・トゥモロウ」
「『明日、行く』、と」
「明日」
「シ。明日」
千綿はディエゴの目を見た。
少年の目は、十二歳の少年のものではなかった。
何かを決めた目だった。
——この少年は、行く。
——一人で、行く。
——止めても、行く。
千綿はそう思った。
「ペドロさん」
「うん」
「ディエゴくんの家族は、もう誰もいないのですか」
「いない」
「親戚は」
「遠くにおる。連絡つかへん」
「村の人たちは止めないのですか」
ペドロはしばし、目を伏せた。
それからゆっくり答えた。
「……止められへん」
「止められない」
「メキシコでは、おじいちゃんの遺言は絶対や」
「絶対」
「孫が運ぶ。それが習慣や」
「子供、一人で、ですか」
「子供、一人でや」
千綿はしばし、黙った。
それからディエゴに、何か言いかけた。
しかし言葉が見つからなかった。
——どこにいても、いい。
——生き残りなさい。
——ヤエお婆ちゃんの言葉が、千綿の中で響いた。
——しかし十二歳の少年が、一人で砂漠を越えて、アメリカの高い山まで行くのか。
——生き残れるのか。
千綿は何も言えなかった。
*
その夜。
三人はホセの蒸留所に戻った。
ホセにディエゴの話を伝えた。
ホセはしばらく無言で、テキーラを飲んでいた。
それから、ぽつりと言った。
「メキシコの子は、強い」
「強いです」
「しかし十二歳は、子供や」
「子供です」
「砂漠は危ない」
「危ないです」
ホセは、もう一杯テキーラを飲んだ。
「……ヒロニモン」
「うん」
「お前らの飛行機」
「ええ」
「マヌエル、修理、終わったか」
「終わった、と聞いています」
「飛ぶか」
「飛ぶと思います」
ホセは千綿の目を見た。
「ディエゴ、追えるか」
「……追えると思います」
「空から見れば」
「砂漠の上で、目印になります」
「ヒロニモン」
「ええ」
「明日ディエゴが出発したら」
「ええ」
「お前らも行ってくれるか」
「……」
「空から見ていてくれるか」
千綿は、しばしホセを見た。
二門もホセを見た。
知里川も毛皮の中から、ホセを見た。
二門が、ぽつりと言った。
「……行くで」
「行くか」
「ええ、行きます」
「……行く」
ホセは頷いた。
そして、もう一杯テキーラを注いだ。
四つのグラスが、机の上で合わさった。
「サル」
「サルです」
「……サルや」
*
その夜、千綿はなかなか眠れなかった。
倉庫の中で、鎗快は明日また、空に上がる。
しかし運ぶのは、爆弾でもテキーラでもなかった。
——一人の少年。
——祖父の骨を運ぶ少年。
——アメリカの高い山を目指す少年。
千綿はヤエお婆ちゃんの、皺だらけの手を思い出した。
「生き残りなさい」
「どこにいても、いい」
ヤエお婆ちゃんは、自分の手の中にその言葉を置いた。
そして今、千綿はその言葉を、別の少年のために使おうとしていた。
——どこにいても、いい。
——ディエゴ。
——どこにいても、生き残れ。
千綿は、目を閉じた。
倉庫の中の鎗快が、明日また、空に上がる。
——明日。




