翌朝のメキシコ、鎗快、倉庫へ
翌朝、千綿薫は頭の痛みで目を覚ました。
天井が低かった。知らない天井だった。土壁の白い天井。木の梁が剥き出しで通っている。
ここはどこか、しばし思い出せなかった。
それから、思い出した。
——メキシコ。
——ホセの蒸留所の二階の客間。
——テキーラを四杯目まで飲んだ。いや、五杯目も飲んだか。記憶が曖昧である。
千綿はゆっくりと体を起こした。
頭が、ずきずきと痛んだ。
隣に二門治郎が毛布にくるまっていびきをかいていた。
その奥に知里川惣藏が、毛皮にくるまって寝ていた。
三人とも生きていた。
それでたぶん、十分だった。
*
階段をゆっくり降りた。
蒸留所の一階で、ホセが銅の蒸留釜の前で作業をしていた。
「オーラ、チワワ」
「……オラ、ホセ」
ホセは片言の日本語を試した。
「オハヨー、で、ええんか」
「『おはよう』、です」
「グッド・モーニング、グッド・モーニング」
ホセは満足げに頷いた。
それから、コップに入った黄色い液体を差し出した。
「ドリンク。グッド・フォー」
「……これは」
「ライムと、塩と、水」
千綿はそれをゆっくり飲んだ。
酸っぱくて、しょっぱくて、独特の苦味があった。
しかし確かに、頭の痛みが少しだけ和らいだ。
*
二門と知里川もしばらくして降りてきた。
二門は頭を抱えていた。
「……飲み過ぎたわ」
「ええ、飲み過ぎました」
「五杯目、覚えとるか」
「四杯目までは覚えています」
「……ええ酒や」
そこへ外から、ペドロの声が聞こえてきた。
「オーラ、ホセ! ヒロニモン、起きたか!」
ペドロが扉を開けて入ってきた。
後ろにもう一人、頑丈そうな男がついてきた。昨日機体のエンジンを見ていた、機械油の匂いの男。
マヌエルである。
*
マヌエルは千綿に握手を求めた。
「オラ、チワワ」
「オラ、マヌエル」
ペドロが片言の英語で橋渡しを始めた。
「マヌエル、ヒロニモンの飛行機、見たい。チェックする」
「機体を確認したい、と」
「……飛ぶかどうか、ですか」
ペドロは頷いた。
「シ。フライ・アゲイン? ポッシブル?」
「『また飛べるか、可能か?』、と訊いています」
二門が顔を上げた。
「飛ばすつもりなんか、これ」
「分かりません。マヌエルさんが点検したい、と言っています」
「……ええ、見せたら」
三人はマヌエルとペドロとホセと一緒に、村の広場に向かった。
*
広場の片隅に、昨夜運ばれた鎗快が置かれていた。
布の翼はたたまれていた。竹の骨組みは組み立てられたまま横たわっていた。サドルとエンジンも、機体についたままだった。
何も解体されていなかった。
マヌエルはしゃがみ込んで、機体をぐるりと見た。
エンジンを覗き込んだ。布の翼を指で押した。竹の骨組みを軽く揺すった。
しばらく、無言だった。
それから立ち上がって、ペドロに長いスペイン語で何か言った。
ペドロが千綿に通訳した。
「マヌエル・セッド……フライ・アゲイン、ポッシブル。ニード、リペア、リトル」
「『また飛べる。少し修理が必要』、と」
「飛ぶんか、これ」
「飛ぶようです」
「太平洋、また渡るんか」
「いえ、太平洋はもう無理でしょう。短距離なら、たぶん」
「短距離って、どれくらいや」
千綿はマヌエルに、地図上の距離を指で示しながら尋ねた。
マヌエルは、しばし考えた。
それから、片言の英語で答えた。
「シ・ハンドレッド、マイル」
「……『百マイル』、と言っています」
「百マイル」
「約百六十キロです」
「百六十キロ、飛ぶんか」
「飛ぶようです」
「百六十キロで、何ができるんやろ」
「分かりません。しかし何かは、できるでしょう」
*
マヌエルは鎗快を、村の倉庫に運ぶよう、村人に指示した。
倉庫は村のはずれにある、石造りの大きな建物だった。
中は薄暗く、ひんやりしていた。
倉庫の奥に、布をかけられた何かが置かれていた。
千綿はそれを見て、二門に小声で言った。
「……二門隊長」
「うん」
「あの布の下、たぶん別の飛行機です」
「飛行機?」
「形が、そう見えます」
ペドロが千綿の視線に気づいた。
そして、にやりと笑った。
「アー! オールド・プレーン! メキシカン・ヒロニモン・プレーン!」
「『メキシコのジェロニモの飛行機』、と言っています」
「メキシコにも、ジェロニモの飛行機、あったんかい」
ペドロは布をめくった。
下から出てきたのは、もっと古い、木と布でできた複葉機だった。
第一次大戦時代の戦闘機の残骸のように見えた。
「これは、何ですか」
「メキシコ革命。スカイ・ファイト。ロング・タイム・アゴー」
「メキシコ革命の空中戦で使われた機体、ですか」
「シ。グランパ、ファミリーズ・グランパ、フライ・ジス」
「彼のおじいさんが、これを飛ばしたそうです」
「メキシコ革命、約三十年前です」
二門は、しばし、その複葉機を見ていた。
「……ワシらの鎗快と、ここで、隣同士になるんか」
「ええ、隣同士です」
知里川が、毛皮の中からぽつりと言った。
「……飛行機が、二機、並んどる」
「並んどるな」
「……ええ景色や」
*
鎗快は、メキシコの片田舎の倉庫で、メキシコ革命時代の複葉機の隣に安置された。
マヌエルは、明日から鎗快の修理を始める、と言った。
千綿は、二門に訊いた。
「修理して、また飛ぶんですね」
「飛ばすつもりなんかな、ホセさんら」
「ええ、たぶん、何かに使うつもりです」
「何に使うんやろ」
「分かりません。しかし、たぶん、メキシコにとってええ何か、です」
*
その日の夕方、三人は村の広場で、子供たちに囲まれていた。
知里川の毛皮を、子供たちが交代で撫でていた。
子供たちは楽しそうに笑っていた。
その中の一人、痩せた、目の大きな少年が、しばらく毛皮を撫でた後、千綿の方を向いた。
そして、何か訊いた。
スペイン語だった。
千綿には半分しか分からなかった。
しかし、「ジャパン」と「ファー(遠い)」、そして「フライ(飛ぶ)」、これらの単語が聞き取れた。
「『ジャパンから、遠くから、飛んで来たのか?』、と訊いています」
「シ。フロム・ジャパン」
少年は、目をもっと大きく見開いた。
そして、空を見上げた。
しばらく、空を見ていた。
それから千綿に、何か、ぽつりと言った。
ペドロが近くで、その言葉を聞いていた。
そして、千綿に通訳した。
「ヒー・セッド……アイ・ウォント・トゥ・フライ・トゥー」
「『僕も、飛びたい』、と」
千綿は、少年を見た。
少年の目は、真剣だった。
千綿は、少年の頭に、そっと手を置いた。
「いつか、飛ばせてやる」
少年は、千綿の言葉が分からなかった。
しかし千綿の表情と、頭に置かれた手から、何かを感じ取った。
そして、にっこり笑った。
知里川が、毛皮の中からぽつりと言った。
「……ええ目や」
「お前、子供の目も『ええ』言うんかい」
「……ええもんはええ」
夕陽が、メキシコの片田舎の村を、赤く染めていた。
鎗快は、倉庫の中で、メキシコ革命時代の複葉機の隣で、静かに眠っていた。
明日、マヌエルの手で、修理が始まる。
そして、いつか、もう一度、空に上がる。
その時、何を運ぶのか——
——爆弾でも、テキーラでもなく。
それは、まだ、誰にも分からなかった。




