ホセの蒸留所と、最初のテキーラ
ペドロは三人に手招きをした。
ついてこい、という意味らしかった。
千綿薫は、二門治郎を見た。
「……どうしますか」
「どうもこうも、他に選択肢、無いやろ」
「ええ、ありません」
「ペドロ、笑顔やし、たぶん悪い人やない」
「たぶん、です」
「『たぶん』に命賭けるしか、ないわな」
知里川惣藏は毛皮の中から、ぽつりと言った。
「……ええ顔や」
「ペドロも『ええ』判定か」
「……マタギは、顔で人を見る」
「マタギの判定、いつも『ええ』やんけ」
「……ええもんはええ」
三人は震える脚を引きずって、ペドロについて歩き始めた。
サボテンの群生地を抜け、低い丘を越えると、谷の向こうに、白い壁の家々が見えた。
土壁を白く塗った平屋の集落だった。屋根は赤い瓦。煙突から薄い煙が上がっていた。
メキシコの片田舎の村だった。
*
村に入ると、ペドロが何やら大声で叫び始めた。
千綿には半分しか分からなかったが、「ヒロニモン」と「ジャパン」と「フロム・スカイ」だけは聞き取れた。
たちまち、村の人々が家から出てきた。
老人も、女も、子供も、皆ソンブレロやショールを巻いた姿で、三人を取り囲んだ。
そして、口々に何かを叫び始めた。
「ヒロニモン!」
「ジャパン!」
「サンタ・マリア!」
「アミーゴ!」
千綿は、しばし固まった。
「……二門隊長」
「うん」
「村ぐるみでジェロニモ扱いされています」
「されとるな」
「断る手段がありません」
「断らんでええわ、もう」
子供たちが、知里川の毛皮を興味津々で撫でていた。
知里川は毛皮の中から、無言で子供たちを見下ろしていた。
「……熊や」
「子供たちが」
「……毛皮、撫でとる」
「ええ、撫でています」
「……マタギの毛皮や、これ」
「説明、できますか、スペイン語で」
「……無理」
「では、撫でさせてください」
「……仕方ない」
知里川は子供たちに毛皮を撫でさせながら、しばらく無言で立っていた。
千葉の松林から、メキシコの村の真ん中まで、この毛皮は来た。
途中、太平洋の上で、熊一頭分の体温を三人に分けた。
そして今、メキシコの子供たちに撫でられている。
知里川は毛皮の中で、何か言いたそうな顔をしていた。
しかし結局、何も言わなかった。
*
ペドロは三人を村の奥へと案内した。
村のはずれに、ひときわ大きな建物があった。
白い壁に、木の看板が掛かっていた。
その看板に書かれた文字を、千綿はなんとか読んだ。
「……『ホセのテキーラ』、と書いてあります」
「テキーラ」
「メキシコの蒸留酒です」
「蒸留所か」
「ええ、蒸留所のようです」
「ペドロ、なんでワシらを蒸留所に連れて来たんやろ」
「分かりません。しかしメキシコでは、来客に最初に酒を振る舞う習慣があると、聞いたことがあります」
「ええ習慣やんけ」
「ええ習慣ですね」
ペドロは建物の扉を開けて、中に声をかけた。
「ホセ! オーラ、ホセ! ヒロニモンだ! ジャパンから、空から、降りてきた!」
中から、低く太い声が返ってきた。
「……ペドロ、酒、飲んどるんか」
「飲んでない! ほんまや! 空から降りてきた!」
「ほな、見せろ」
中からゆっくり、男が出てきた。
五十がらみの、頑丈そうな男だった。背は低いが、肩幅が広い。顔は浅黒く、白髪混じりの口髭を蓄えていた。
ホセだった。
ホセは三人を見て、しばし何も言わなかった。
それから、ペドロを見た。
「……ジャパンか」
「ジャパンや!」
「フロム・スカイか」
「フロム・スカイや!」
ホセは、しばし何か考えた。
それから千綿に向かって、片言の英語で尋ねた。
「ヤンキー、ノー?」
千綿は、しばし考えた。
「『お前ら、アメリカ人じゃないな』と訊いている、と思います」
「答えるんか」
「ええ」
千綿は首を、強く振った。
「ノー、ヤンキー。ジャパニーズ」
ホセの顔がぱっと明るくなった。
「ジャパニーズ! ノー・ヤンキー! ベリー・グッド!」
そして両手で、三人の肩をぐっと掴んだ。
ホセの手は太かった。掴まれた肩が痛かった。
「カム・イン、アミーゴ!」
千綿は、二門に通訳した。
「『入れ、友達』、です」
「ヤンキー嫌いか、この人」
「ええ、たぶん嫌いです」
「ええ味方、見つけたな」
「ええ、ええ味方です」
*
蒸留所の中は薄暗く、独特の発酵臭が漂っていた。
奥に、銅の蒸留釜がいくつも並んでいた。
その手前に、木のテーブルと椅子がいくつか置かれていた。
ホセは三人を、椅子に座らせた。
ペドロも同席した。
ホセは棚から、透明な液体の入った瓶を取り出した。
そして四つの小さなグラスに注いだ。
四つのグラスの一つに、ホセは自分の太い指で塩をつまんで入れた。
それから二門の前のグラスにも塩を入れた。
千綿と知里川のグラスにも塩を入れた。
ペドロのグラスにも塩を入れた。
「サル!」
ホセはグラスを高く掲げた。
千綿は二門に通訳した。
「『塩』です。乾杯の代わりに『塩』と言うようです」
「乾杯で塩、変わっとんな」
「メキシコの習慣です」
ホセは、グラスを一気にあおった。
ペドロも、あおった。
二門は、しばし自分のグラスを見つめた。
それから、千綿と知里川を見た。
「……いくか」
「いきましょう」
「……飲む」
三人は、グラスを同時にあおった。
*
喉が燃えた。
三人は、しばらく息を止めた。
それから、咳き込んだ。
「ゴホッ……強い」
「これは強いです」
「……強い」
ホセは、にやりと笑った。
「ベリー・ストロング、ノー?」
「ベリー・ストロング、です」
「グッド・フォー・ジャパニーズ。バッド・フォー・ヤンキー」
「『日本人にはいい、ヤンキーには悪い』と言っています」
「論理、よう分からんけど」
「論理はありません。感情だけです」
ホセは、もう一杯注いだ。
三人にも、注がれた。
「もう一杯か」
「もう一杯、です」
「断れるか、これ」
「断る、スペイン語、知りません」
「お前、まだネタ切れ続いとるんか」
「ええ、続いています」
二杯目を、飲んだ。
三杯目も、注がれた。
千綿は、しばし考えた。
蒸留所の、薄暗い灯りの中で。
メキシコの片田舎で。
ヤンキー嫌いの工場長と、空想豊かなソンブレロの男と、毛皮の中の寡黙なマタギと、関西弁の隊長と、東大出の理屈屋が。
塩で、乾杯していた。
——ここは、悪い場所ではないかもしれない。
千綿は、そう思った。
そして三杯目を、ゆっくりと飲んだ。
喉はまだ燃えた。
しかしその熱は、太平洋の上の寒さで凍えきった体の、奥の奥まで届いた。
体が本当の意味で、温まり始めた。
——電気仕掛けの軍服ではなく。
——人肌で温めた蓄電池でもなく。
——メキシコのテキーラで。
千綿は、目を閉じた。
ヤエお婆ちゃんが、言った。
「どこにいても、いい」
——どこにいても、いい。
千綿は、目を開けた。
四杯目が、注がれていた。




