下に陸が見える、たぶんアメリカ
三日目の夜明け前。
最後の一機の鎗快に、三人が乗っていた。
サドルには知里川惣藏が跨っている。後ろには二門治郎がしがみつき、その後ろに千綿薫がさらにしがみついていた。
体勢は、もう人間が空を飛ぶ姿ではなかった。
「……知里川くん」
「……なんや」
「貴方の毛皮、もう私のものでもあります」
「……いいぞ」
「ありがとうございます」
「……毛皮、共有や」
「共有、ですか」
「……マタギは、生き残るためなら共有する」
「先日は独占主義でしたが」
「……方針、変わった」
「マタギ、柔軟ですね」
「……生き残るためや」
千綿は震えながら、知里川の毛皮の端を握っていた。
毛皮の中は、暖かかっつた。
それでなんとか、夜を越えられた。
*
東の空がゆっくりと明るくなってきた。
雲海の縁が金色に染まる。
千綿は、しばしその光を見ていた。
「……綺麗ですね」
「綺麗やな」
「……綺麗や」
——三日連続で同じやり取りをしている。
しかし毎回、本当に綺麗だった。
二門がぽつりと言った。
「……三日目の朝や」
「ええ、三日目です」
「あと、どれくらいで陸に着くんや」
千綿は、コンパスと地図を確認した。
ジェット気流の速度から計算する。東向きの流れに乗ってから、約六十時間。
「……理論上、もう北米大陸の沖合にいるはずです」
「沖合か」
「ええ、もう少しで陸が見えるはずです」
「ほんまか」
「理論上、です」
「理論、好きやな」
「物理法則は感情を聞きません」
「物理法則、また出てきたな」
「飛んでいる以上、出てきます」
*
その時。
知里川が、ぽつりと言った。
「……下に、陸が見える」
二人は慌てて、下を見た。
雲の切れ間に、何か白っぽい線が見えた。
水と陸の境目だった。
「……陸や」
「陸ですね」
「……陸や」
三人は、しばらくその線を見ていた。
線はゆっくりと近づいてきた。
そして雲が晴れていった。
雲の下に広がっていたのは——
砂漠だった。
赤茶けた、乾いた大地。
地平線まで続いていた。
「……」
「……」
「……」
千綿は、地図をもう一度確認した。
それからコンパスを確認した。
それから太陽の位置を確認した。
そして、ぽつりと言った。
「……二門隊長」
「うん」
「ここ、アメリカ、ですよね」
「アメリカやと思う」
「ですよね」
「うん」
「ただし」
「ただし、なんや」
「ロサンゼルスの位置を確認します」
千綿は地図を広げた。
地図上のロサンゼルスの位置を、指で示した。
「ロサンゼルスは、太平洋に面しています」
「面しとるな」
「海のすぐ隣です」
「すぐ隣やな」
「我々の眼下は、海からもう、かなり離れています」
「離れとるな」
「砂漠が、地平線まで続いています」
「続いとるな」
「ロサンゼルスではないと思います」
二門は、しばし黙った。
「……ロサンゼルス、ちゃうんかい」
「ちゃうと思います」
「ほな、どこやねん、ここ」
千綿は、もう一度、地図とコンパスと太陽を確認した。
そして、ぽつりと言った。
「……分かりません」
「分かりませんかい!」
「アメリカのどこかの内陸部です」
「内陸部って、広いやろ」
「ええ、広いです」
「広いって、どれくらいや」
「日本の、二十倍くらいです」
「二十倍!」
「ええ、二十倍です」
「ほな、ここ、二十分の一の確率でどこかかい」
「ええ、確率としては」
「確率言うな」
*
知里川が、ぽつりと言った。
「……でも、陸や」
二人は知里川を見た。
「……海の上で墜ちて死ぬよりは、ええ」
「……」
「……マタギ、陸の方がええ」
二門が頷いた。
「……せやな」
「……ええ陸や」
「お前、ほんま、なんでも『ええ』言うな」
「……ええもんはええ」
千綿は震えながら笑った。
笑った後、思い出した。
——爆弾を捨てた。
——二機の鎗快を捨てた。
——軍人として敗北した。
しかし今、自分たちは陸の上にいる。
生きている。
ヤエお婆ちゃんが言った「生き残りなさい」を、今のところ果たしている。
それでたぶん、いい。
千綿は、二門に言った。
「……二門隊長」
「うん」
「降下しましょう」
「降りるか」
「ええ、降ります」
「ジェット気流から外れるんやな」
「ええ、気嚢を切り離します」
「切り離したら、もう戻れんで」
「戻る場所も、もうありません」
「……せやな」
二門は頷いた。
そして震える手を、気嚢と機体を繋ぐ紐に伸ばした。
紐を握った。
「……ヤエさんの和紙、お疲れさんやな」
「ええ、お疲れさまでした」
「半年かけて貼ってもろて」
「ええ、半年です」
「ここまで運んでくれた」
「ええ、運んでくれました」
二門は、しばし紐を見つめた。
それから、ゆっくり紐を引いた。
——カチン。
紐の留め具が外れた。
気嚢は機体を失って、ふわりと軽くなった。
そしてゆっくりと、上昇していった。
——上空へ。
——西から東へ流れていった。
機体は気嚢を失って、ゆっくりと降下を始めた。
——下へ。
——アメリカの、たぶん内陸部の、どこかへ。
最後の一機の鎗快は、ロガロ翼の滑空で、未知の大地に向かってゆっくりと降りていった。
その遥か上空を、和紙の気嚢が東に向かってゆっくりと流れていった。
気嚢にはもう、誰も乗っていなかった。
ただ、ヤエお婆ちゃんが半年かけて貼った和紙だけが、東へ流れていった。
その先、大西洋を越え、ヨーロッパまで流れていったかもしれない。
あるいは途中で水素を失い、海に墜ちたかもしれない。
誰にも分からない。
ただ、和紙だけが流れていった。
誰の歴史にも残らない、和紙だった。




